先に触れました福沢諭吉・小幡篤次郎の『学問のすゝめ』[★図29]の初版も活字版です。初版は,かなりの稀覯本でして国立国会図書館にはなかったと思います。あまりに線がきっちりと出ていますので,金属活字だろうと言われています。仮名を比べてみますと,全部似ています。似ているんですけれども,重ねてみましても絶対にピタリとは重なりません。つまりこれは,鋳造活字ではなく彫刻活字なんですね。というわけで,金属製の彫刻活字という非常に珍しいものだったんではないのかと言われてきました。最近気付いたのですが線がきっちり出るか掠れるかは,活字の材質以上に,どうも紙質が関係しているようです。ですから極めて硬質の木活字であった可能性も捨てがたいと思います。本の一番最後の部分,端書の末尾に,「慶応義塾の活字版を以てこれを摺り」云々,という文章が載っています。
     
★図29
『学問のすゝめ』端書末「明治四年/未十二月/福沢諭吉/小幡篤次郎/記」……富田正文『福沢諭吉書誌』などに明治5(1872)年2月の刊行とされている。中本。なお『学問のすゝめ』の活字と書風が近似する資料に『慶応義塾読本』(慶応義塾,明治4〔1871〕年)の表紙がある。版相からして木質の版による印刷とは思われず金属版と推察されるが,活字によるものか,あるいは金属ブロックの彫刻であるかは判然としない。
 
     
★図30……手前3本が島活字の仕上げ過程の各段階。島活字 島家所蔵・印刷博物館寄託

   また鋳造活字なのですが刀〈とう〉で仕上げをしたものもあります[★図30]。東京帝国大学医学部の前身である大学東校官版に用いられた金属活字がそれで島霞谷〈しまかこく〉という人が発明したものです。父型は黄楊,母型は楊材で,そこに鋳型を立てて鉛合金を流し入れるという簡便な製法で作られた活字です。鋳造活字なのになぜ仕上げの工程が必要なのかというと,東校官版に使われました活字は確かに鋳造活字なんですが,要するに「不完全な鋳造活字」であって,鋳造した状態でそのまま使うことはできません。刀を入れて最後に仕上げをやらなきゃならない。そこで活字の仕上がりが一字ごとに微妙に変わってしまう。桐生市にブツそのものが残されていたおかげで,仕上げの各段階まで我々は知ることができたわけです。島霞谷の活字の実物が,十数年前ではなかったかと思いますが,霞谷のお孫さんの家の土蔵の中から数百本出てきました。それで桐生市まで調べにいったんですけれども,活字ソノモノが出て来ているということもありますし,実際に印刷博物館に今陳列してあります霞谷の活字の中で印刷物と明確に一致するものも見つかっていますから,これらが活版であることは間違いありません。ただこれを鋳造活字であると言い切るためには実物が出てこなければ非常に難しかっただろうと思います。
★図31は明治3(1870)年から4(1871)年にかけて出されました大学東校官版,その一つで『日講紀聞』という本です。
     
★図31
大学東校版『日講紀聞』……四周双辺。半紙本。刊記はないが明治4(1871)年刊と推測される。
 
     
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