タイポグラフィの世界  
   
 
 
小宮山博史
 
 
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    金属活字や写植、デジタルフォントで文章を組んだとき、無い字が出てきて困ったという経験を持つ方も多いと思います。写植文字盤に目的の文字がない場合は、オペレーターが別の字の偏や旁、冠や脚を印字し、印画紙を上手に切り離して貼り合わせ一字を作っていました。金属活字の場合も同じように活字を切り離して一字を作りますが、鉛材ですから工作機械がないとできません。鋳造が間に合わないときとか、母型がない場合に限って使われた、その場限りのものでした。これは「作字」という方法です。デジタルフォントでは切ったり貼ったりはしませんが、CRT 上で合成しますから方法は同じです。違うのは作字された文字を保存できるということでしょうか。
 これと似たような方法で一字を作る活字に、分合活字〈ぶんごうかつじ〉というのがあります。作字と根本的に違うのは、分合活字は最初から組み合わせることを目的に開発された活字で、偏と旁、冠と脚の4種に分けて作ってあります。この用語がはじめて日本に持ち込まれたのは明治2(1869)年ではないでしょうか。この年の11月上海からウイリアム・ギャンブルが長崎に来て、活字印刷術と活字製法を教授したとき Divisible type という用語で伝えたのではないかと思っています。上海美華書館の旧 Double Small Pica 二号と Two-line Brevier 三号は分合活字です。日本は美華書館の活字を導入しましたから、本木昌造や伝習生には当然そのシステムについて説明があったと考えるのが自然だと思いますが、いかがでしょうか。では日本の活字見本帳に載っている分合活字は、と思って調べてみました。しかし資料自体が少なくこれで全部とはいえないのが残念です。
 古いところでは紙幣局活版部、明治10(1877)年発行の総合見本帳『活版見本』には「第四号分合」と「第五号分合」の2種が1頁に掲載されています。また明治18年に印刷局活版部が出した『活字紋様見本』にも同じものが載っています(図1)。四号では3分の1幅の偏20種、3分の2幅の旁20種で、それによって作られた文字が20字あります。五号は3分の1幅の偏14種、3分の2幅の旁おなじく14種で、それを組み合わせて作られた文字14字が載っています。
 東京築地活版製造所発行の活字総数見本帳『二号明朝活字書体見本 全』(明治25年)(図2)、『五号明朝活字所帯見本 全』(明治27年)には「分合文字」という名前で分合活字が掲載されています(図3)。掲載の二号分合文字は、3分の1幅100種、3分の2幅901種で、合成された文字は62字です。五号分合文字は3分の1幅85種、3分の2幅271種で、合成された文字は載っていません。二号総数見本の収録漢字は7,651字、五号は9,368字ですが、それだけあっても出現予測のできない不足字種への用意として制作していたのでしょうか。また明治28(1895)年発行の総合見本帳『座右の友第二』と明治33年発行の『新製見本』の価格表には二号と五号の「分合字」が載っていますので、この年までは販売していたことが確認できます。また分合文字あるいは分合字は二号と五号だけにあったこともわかります。
 日本の分合活字は二号、四号、五号の3サイズで作られたようです。紙幣局活版部は本木昌造と一緒にギャンブルの講習を受けましたが、本木とは行動をともにせず勧工寮活字局に残った人々がもとになっています。活字局は明治7年太政官印書局に統合され、印書局は明治8年大蔵省紙幣寮に統合されて活版局、明治10年紙幣局活版部、明治11年大蔵省印刷局と目が回るような組織変更です。四号に分合活字があるのは、たぶん明治10年ごろまでの本文活字の大きさは四号が多かったことによるのかもしれません。

   






























図1




図2

図3
  分合活字の制作者と制作年を日本で最初に紹介したのは、『印刷雑誌』第24巻第1号(昭和16年1月)所収「中国印刷術の発達に就きて」です。以下分合活字の部分を引用します。

 「道光十六年(西暦1836年)フランス人エム・シー・グランド(M. C. Grand)は、華文の字母の多きにかんがみて、華文合せ字(華文累積字)を考へた。それは部首と原字を分けたのである。例えば「蜿」「碗」「妬〈ママ〉」(引用者註、「婉」が正しい)等は「虫」「石」「女」と「宛」を作り、「蜿」の時は「虫」と「宛」を合わせたのである。之は排列不均一に成り、澳門〈マカオ〉に保存されたるが永く使用されず遂に廃止された。」

 原文は1932(昭和7)年上海の商務印書館発行の『最近三十五年之中国教育』所収「三十五年来中国之印刷物」で、執筆は女性の賀聖〓〈がせいだい〉で、これを翻訳して『印刷雑誌』に紹介したのは華中印書局の杉山憲一です。
 賀聖〓の文章はフランス人というところだけ正しく、あとはみな間違っています。
 賀聖〓の文章のもとになったのは美華書館60年史に相当する The Mission Press in China(Gilbert McIntosh. American Presbyterian Mission Press. 1895)です。原文は次のようになっています。

 Another font was made about the year 1836 by M.C.Grand, a type founder in Paris; the special characteristic of the font being the casting of the radical and primitive on separate bodies (e,g.,虫宛蜿 or 魚秋) thus requiring few matrices.

 ちょっと寄り道です。
 商務印書館を設立した4人は、上海の北米長老教会清心堂が運営する学校清心書院で学んでいます。清心堂は第6回に書きましたが、ヘボンと岸田吟香が『和英語林集成』の印刷のために宿泊したかもしれない場所です。1902年から3年かけて北四川路横浜橋北に印刷工場を建てた北米長老会印刷所美華書館から西へ500メートルほどの宝山路に、1897年創業の商務印書館総廠は建っています。ここに越してきたのは1904(明治37)年ですから、なんだか美華書館を追ってきたみたいにみえますね。しかし商務印書館は1932年の第一次上海事変で日本軍の砲爆撃を受けて破壊され、再建された建物も1937年の第二次上海事変で壊滅的打撃を受けてしまいます。そして商務印書館が開設した上海一の東方図書館もわずかの蔵書をのぞいて灰燼に帰しました。美華書館もはっきりした理由はわかりませんが第一次上海事変ごろには廃業しています。どうも2つの印刷出版所は深く結びついているようです。
 破壊される前の1910年前後の商務印書館の内部を、アメリカ人女性フランシス・スタッフォード(Francis Eugene Stafford)が撮影しています。これだけ詳細に館内を撮影したものを見たことがありませんでしたので、見たときは興奮しました。本の名は『20世紀初的中国印象』(上海市歴史博物館編、上海古籍出版社、2001年刊)です。今でも入手可能だと思いますが、私は上海博物館のミュージアムショップで求めました。

   














※〓は乃/鼎。
  もっとも早く分合活字を使った印刷物は、1837年パリで出版されたポティエ(Jean Pierre Guillaume Pauthier)著の『大学 Le ta hio, ou la grande etude』(図4)だと思います。『大学』は儒教の経書ですが、その中国語対照フランス語訳本です。このフランス版は、フェルミン・ディドー(Firmin Didot)の印刷で、活字は「王立印刷所の彫刻師マルスラン・ルグラン(Marcellin Legrand)が鋼鉄に彫刻した漢字分合活字」と表紙に記されています。フランスの東洋学者ポティエは、1834年に老子の『道徳経』(遅れて1842年に刊行されました)の対照訳本の出版を計画し、それに使う漢字活字の彫刻を王立印刷所の父型彫刻師ルグランに依頼します。ルグランは常用漢字2,000字の父型彫刻を快諾します。この話はすぐさま広東にも伝わり、月刊誌 Chinese Repository(アメリカン・ボードが1832年5月広東で創刊した英文雑誌で、漢字活字も使われています)第3巻第11号(1835年3月)にその記事が載りました。記事の表題は「漢字金属活字 パリにおける鋼鉄製パンチによる漢字活字のフォント鋳造の提案、ボストンにおける版木によるステロ版作成の試み」です。一部を以下に引用してみます(『印刷史研究』第3号所収、鈴木広光「中国プロテスタント活版印刷史料訳稿(下)」印刷史研究会発行、1996年)。

 「ポティエ氏によって作成された金属活字についての情報は、最近パリで刊行された内容見本に拠っている。この内容見本に掲載されている活字見本から、ダイア氏作成のものより活字のボディが小さく、フェイスも硬く不自然であることが分かるが、これまでに見たヨーロッパ製の活字のなかでは、明らかに最も良い出来である。かって入手した見本で確かめ得たところでは、活字のサイズはグレートプライマーに相当する。」
 
 活字サイズは Great Primer 18ポイントではなく、Two-line Brevier 16ポイントが正しい。ダイア氏作成というのは Double Pica 24ポイントです。
 マッキントッシュと賀聖〓の文章にある M. C. Grand は M. Legrand の誤りであることがわかります。The Mission Press in Chinaの原稿はペンによる手書きであったと思います。手書きの Le あるいは le 〈Le, le は正統的なスクリプト〉を文選植字工は読み切れずに C. と理解してしまい、校正段階でも見落とされて、M. C. Grand が一人歩きしてしまったのではないでしょうか。これをそのまま引用した日本では、実在しない人物が長いあいだ生きていたことになります。

   

図4










ここに使われている漢字活字は、ロンドン伝道会宣教師ロバート・モリソン(Robert Morrison)の中国語字典に使われた16フールニエポイント長体漢字活字で、鋳造活字ではなく一字一字を彫刻したものである。中国語字典は全5巻、イギリス東インド会社が資金と設備を援助した。印刷はイギリスから派遣されたトムズ(P.P.Thoms)。1815年から23年にかけて刊行。アメリカン・ボードは官憲の妨害によって広東を去り、35年マカオに移転して印刷活動を継続した。マカオ移転時に東インド会社の活字を使うことができるようになった。この活字は1856年12月14日火災によって破壊された。
  ルグラン彫刻の分合活字は早い段階で国外に販売されたようです。『大学』が刊行された1837年に、ヴェネチアのサン・ラッツァーロ島にあるアルメニア修道院の印刷工場が刊行した総合見本帳 Preces Sancti Nersetis Clajensis Armeniorum Patriarchae には、25頁にわたってこの分合活字の組見本が掲載されています(図5)。ルグランの分合活字ができるまでにも、フランス王立印刷所はすでに16ポイントの鋳造活字2種を開発していますが、市販品ではなく王立印刷所内で使用するものでした(図6)。
 中国に展開するキリスト教各派は文書伝道のためになにをおいても鋳造活字を熱望していたに違いありません。インドのセランポールに展開していたバプテスト派も鋳造活字や彫刻活字を1810年代前半には持っていましたが、他の会派の印刷物には見られません。ヨーロッパでの中国学の進展を考えれば、かなり多くの漢字活字が開発されていたと思われますが、確認はまだできていません。また1835年ごろからロンドン伝道会のダイアが父型彫刻を始めた Double Pica 24ポイント活字と、 Three-line Diamond 13.5ポイント活字は、ダイアの死とあとを引き継いだストロナックやリチャード・コールの努力をもってしてもまだまだ完成にはほど遠かった。
 『中国印刷史』を書かれた張秀民先生は、北米長老会は1863年に一組3000字を5000元で購入し、マカオの長老会印刷所に送ったといいます。こう記述する根拠あるいは原典を書いておられませんので、正しいのかどうかわかりません。
 The Mission Press in Chinaでは、北米長老会印刷所がマカオに進出したのは1844年です。マカオが開港されたのは1843年ですから、1836年には印刷所はマカオにはないはずです。張先生の文章は買ったときと送ったときが違う文章構造かもしれません。
 長老会印刷所の初代所長となるリチャード・コールは1844年2月23日印刷機とともにマカオに到着、4月1日には323個の母型も到着します。宣教師ラウリー(Walter Macon Lowrie)がこの年刊行した分合活字の見本帳『新鋳華英鉛印』の序論に次のように書いています。

 「東洋学者の関心はしばしば、中国語を金属活字で印刷するという課題に向けられてきた。最大の難点は、その文字の数にある。なぜなら、比較的頻用される文字でも五千を超え、さらに植物学や動物学、薬学の著作にいたっては、五千字のフォントでさえ対応しきれないほど膨大な活字が必要だからである。一万字あるいは一万五千字では場所を取るし、その使用も難しい。そのため多くの人々は、整版方式以外で中文を印刷することは実用的でないと考えてきた。十年前パリの何人かの中国学者が文字を分割するという計画を案出した。この方法によれば、大量で不便な活字を必要とせずに、如何なる中国語著作でも印刷できるというのである。当時中国伝道を意図していた米国長老会の海外伝道部は、母型の一組を入手し、この計画が実行可能であるかを実地にテストすることを決定した。数年間の苦労の末(大部分は伝道部の通信・文書係によって行われたものであるが)、計画がかなりの程度熟してきたところで、印刷機と母型が今年、中国にもたらされた。そして活字が鋳造され、印刷所では中国語または英語で印刷を行う準備が整ったのである(前出、鈴木広光『訳稿(下)』より)。」

 文章中の「数年間の苦労」から、北米長老会がこの分合活字の母型を購入したのは1840年前後と想像されます。ただ、44年にマカオに送られてきた母型が323個といっていますが、これだけで足りるはずもありませんから、残りの母型はは後送されたのかもしれません。

   




図5
フランス王立印刷所

図6



セランポールミッションプレス
  ラウリーの文章から、漢字活字の開発では彫刻しなければならない漢字の数がいつも問題になっていることがわかります。欧文ならたかだか2〜300ですみますが、その30倍、50倍の文字数を彫らねばならないと考えたとき、きっと気が遠くなるような思いを味わったのではないでしょうか。「十年前パリの何人かの中国学者が文字を分割する計画を案出」とありますが、この学者とはポティエとパリ大学教授ハインリッヒ・クラプロート(Heinrich Julius Klaproth)ことです。文字を分割するというのは偏旁あるいは冠脚を別々に作っておき、それを組み合わせて一字を作る分合活字のことです。クラプロートはフランス王立印刷所に楷書体活字の開発を提案し、1830年から34年にかけて同印刷所の父型彫刻師ドラフォン(Delafond)が偏旁の分合活字システムを使って作っています(図7)。
 ヨーロッパの言語はアルファベットの文字を組み合わせて語を作ります。これを漢字に応用し、少ない単位に分割できるのではないかと考えるのは自然のなりゆきだと思います。そうすれば彫刻しなければならない文字は極端に少なくなるはずです。マカオの長老会印刷所華英校書房(1845年寧波に移って華花聖経書房、60年上海に移転し美華書館と名前を変えます)が導入したフランスの分合活字の内訳は、

 1. 部首別に分類された単体活字 1,963字
 2. 分合活字
    左右合成 3分の1幅    98種
         3分の2幅  1,317種
    上下合成 3分の1幅    50種
         3分の2幅  1 424種
             合計 3,852種

です。この分合活字の総数見本帳 Characters Formed by the Divisible Type Belonging to the Chinese Mission of the Board of Foreign Mission of the Presbyterian Church in the United States of America(1844年刊。『アメリカ合衆国長老会海外伝道会議の中国伝道会が所有する分合活字による文字』)に収録されている漢字は22,841字で、後に917字が追加され総計は23,758字になります(図8)。単体漢字を除きますと、1,939種の分合活字で作られる漢字は21,795字です。分合にすることでその10倍の漢字が作れると思うと凄いシステムですね。
この活字を彫ったルグランは、1859年パリで見本帳 Spcimen de Caractres Chinois『〓【金+周】〈ちょう〉新刻聚珍漢活字』を出しています。長老会の見本帳にくらべて若干文字数は増えています。その内訳は、

 1、部首別に分類された単体活字  12,151字
 2、左右合成/上下合成用の3分の1幅 11 169種
 3、左右合成用3分の2幅       1,440種
 4、上下合成用3分の2幅        460種

の、合計4,220種です。分合活字を使って合成できる漢字は3万から3万2000字であるといいます(図9)。

   












図7




















図8












図9
  Chinese Recorder第6巻第1号(1875年1〜2月)にアメリカン・ボードの宣教師ウイリアムズ(Samuel Wells Williams)は「Movable Type for Printing Chinese」を執筆し、パリ製の分合活字の欠陥を次のように書いています。

 「この母型一式は1844年中国に持ちこまれ、アメリカ長老会の宗教関係の印刷に主として使われました。この活字は外国人技術者が苦労して作ったものですから、中国人の嗜好に合わなかったとしても驚くにはあたりません。画線が細すぎ、終筆が小さなハネで終ることが多く、筆で書かれた文字とは異なる形をしていました。また、例えば「材」のように偏と同じ大きさの三画の旁を組み合わせた場合、文字各部分のバランスの崩れが生じますし、二十〈ママ〉画の「」などではその姿形は心地よくなくあまり使われませんでした。合成による姿形の崩れは「〓【竹冠+亢】」や「〓【竹冠+闌】」など上下合成の文字でさらに大きくなりました。このようなバランスの崩れた文字が多いとページ全体の美観が損なわれてしまいます。しかし条件つきではありますが、この合成による方法は便利なものでありました。」

 中国人の好みに合わなかったとありますが、合成字を見るとたしかにバランスの崩れた字が多く、中国人だけでなく日本人でもこの字形では満足できないでしょう。偏の幅は旁の画数によって変化しますし、冠も脚にくる文字の複雑さによって上下幅がさまざまに変化します。それを3分の1と3分の2に固定化・単一化することは、本来持っている文字のバランスを無視することになります。漢字は同じ部分を組み合わせて作られてはいますが、その各部分は文字によって線の位置、長さ、幅が変わることで一字としてのバランスを保ちます。分合活字は金属のボディを持っていますので、活字ボディを超えて線を設定できない、たとえば偏旁構造の文字で旁のハライなどが偏のボディ部分に伸びることは不可能です。単体活字であれば正方の活字表面の中で自由に線を伸ばすことができますが、分合では中途半端な印象を残すだけです。
 本木昌造が美華書館から導入した三号はこの分合活字でしたが、明治5年の「崎陽新塾製造活字目録」(連載第1回、図7)の掲載活字8字には分合はなくすべて単体活字ですので、ここから分合活字の欠陥を見つけることはできません。導入された分合活字三号は、組み合わせて一字を作るという植字の面倒さと、字形の不備もあって日本ではほとんど使われることなく、早い時期に新刻された単体文字にきりかわったものと思われます。
 長老会印刷所の所有する活字はこの16ポイント分合活字だけでしたが、書籍を印刷しようとすれば一サイズでは足りず、どうしても何種類かのサイズが必要になります。前にも書きましたが、ロンドン伝道会のダイアが開発中の大型サイズと小型サイズの書体は、彼の死(1843年)によって、完成は先のことになりました。そんなときベルリンの活字鋳造業者バイエルハウス(August Beyerhaus)が援助を申し出ます。バイエルハウスはダイアが開発を進めていた二つのサイズの間のサイズで、分合活字のシステムを使って作ることになりました。サミュエル・ウイリアムズによれば父型の彫刻数は約3,200字。そしてそのサンプルを見た感想として「ルグラン氏がパリで作った分合活字よりもはるかに優雅な姿形をしている」と書いています。しかし開発速度は遅く、母型が寧波の華花聖経書房に届いたのは開発開始から15年目の1859年のことでした。この活字は Double Small Pica 22ポイントで、『教会新報』に掲載された美華書館活字広告(連載第1回、図1)中の右上がりの構造を持つ二号です。
 ルグランの分合活字の字形で問題となった上下合成をやめ、偏旁の左右合成だけにしています(図10)。バイエルハウスについては詳しいことはわかりません。しかし1840年に北ドイツのブラウンシュヴァイグで刊行された Gutenbergs-Albumには、バイエルハウスが作った楷書活字128字の見本が掲載されていますので、かなり早い時期に漢字活字を作っていたことがわかります(図11)。
 分合活字の考え方は、彫刻する漢字数を大幅に減らすことに成功しましたが、金属のボディの組み合わせという制約もあって、字形の完成度に恨みを残しました。しかし現在のデジタルフォントの漢字の多くは、いろいろな部分を組み合わせて作られているはずですので、これは分合活字の考え方と同じです。金属の分合活字と違うところは、ボディは仮想の存在であるということです。優れた書体を生み出すことができる環境は昔にくらべてはるかに整いましたが、しかし、字形の優劣を決めるのはデザイナーの豊かな経験と研ぎすまされたセンスであることは言うまでもありません。

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第1回、図7






















第1回、図1

図10




図11
   

●参考文献/関連書籍
『中国印刷史』張秀民著、上海人民出版社、1989年
『本と活字の歴史事典』印刷史研究会編、柏書房、2000年
『印刷史研究』第1号、印刷史研究会、1995年
『印刷史研究』第2号、印刷史研究会、1996年
『印刷史研究』第3号、印刷史研究会、1996年


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