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明治8(1875)年9月3日、活字製法と近代印刷術を上海から導入した本木昌造は、長崎で52歳の波瀾万丈の生涯を終えました。本木昌造の死去から二日後の9月5日、東京日日新聞第1115号は追悼記事を載せました。すこし長いのですが平野活版の盛況もわかりますので全文を引用してみます。原文は句読点がなく読みにくいので、すこし切ってみました。漢字は新字体に直してあります。 「長崎の本木昌造は一昨三日の朝六時ごろ死去せりとの電報を得たり 嗚呼をしむべし 未だ老人の仲間に入るほどの齢にもあらぬに 何ゆゑ早く此世を見すてたるならん 抑々此人は我々同業の新聞紙屋そのほか活字版を以て業とする者なら 厚くお礼を申さねば成らぬ筋がある 如何となれば此人は我が日本に於て西洋の法に倣ひ鉛製の活字版を開き始めたる元祖と云ふべし 今を去る十四年前文久壬戌のとし長崎に於て社を結び電力活字の業を起したれども 時運いまだ至らず世人これを用ゆる者なきより月々五百余金の損と成り 数年の間にて既に三万両余を失なふに至れども 昌造もとより剛毅なる性質にて能く久しきに堪ふるを以て更に其志ざしを折かず 多くの艱難を忍び益々精神を凝し必ず日本に此業を盛んならしめんと勉強せし功ありて 八九年の後に至り漸やく世に行わるるに至りしかば 猶も勉強して国家の文運を助けんと 明治三年の秋その社中の一人たる平野富二を択んで東京に出店せしめ 築地二丁目二十番地に活字製造所を取り立て盛に是を製し出したる折から 文明開化の盛運と成りて新聞紙屋は一雨一雨と殖る 彼所にも此所にも活字の印行場始まる 茶や料理屋の引札から芝居の番付までみな活字版を用ゆる世の中と成り 人々も便利を喜こび新聞紙屋も渡世ができ 製する方でもお金が儲かる様に成たる元はと本木に返つて見れば 昌造先生が(引用者註、「本木昌造」を割って語呂合わせをしています)多年辛苦を厭はず尽して仕揚られたる御陰にあらずや 故に我々の同業は此人に対して厚くお礼を申すべき筋ありと云ふとも決して無理には非ざるべし 今そのお礼かたがた弔悼をも兼て築地の活版製造所へ往て見ましたが 成るほど感心にいろいろの字母が出来て居りました 横文字は何の様なのでもみな西洋の形写して 花文字から枠に用ゆる唐草まで揃ております カタカナひらがなは申すに及ばず漢字は明朝風も楷書も大小いろいろありて 此節できかかりて居るのは極々ちいさい漢字と二字つづけ三字続の平かなだと申す事 是が出来たらば猶また便利に成りませう 然して大壮おほきな製造場を新しく立ててありましたから中へ入つて見ましたが 大勢の職人が蒸気の仕掛で仕事をして居りましたが 活字ばかりでは無い銅鉄の細工は何でも出来ると見えます 夫もその筈この本木昌造と云ふ人は二十年前に長崎の製鉄所を開いた人で五座ります」 この見学記事で興味深いのは、次の3点でしょうか。 1.「明朝風」という表現 2. 小さいサイズの漢字活字の制作 3. 二字、三字続きの平がな活字の制作 「明朝風」という表現から、この当時平野活版内では「明朝体」というはっきりした書体名称を使っていなかったかもしれません。明治5(1872)年の崎陽新塾〈きようしんじゅく〉製造活字目録は書体名を表記せず、ただ「活字」としてありました。書体名称は他書体との差別化をはかるために必要なものですが、差別化する書体がなければ「活字」だけでよく、べつに名称を付ける必要はありません。明朝体という名称が必要になってくるのは、本木の追悼記事が掲載された20日後の9月25日に開業した弘道軒が楷書活字を製造販売することになってからでしょう。この楷書活字は後に弘道軒清朝体〈せいちょうたい〉とよばれる書体です。 小さいサイズの漢字活字とは、たぶん六号(角寸法約2.8ミリ)だと思います。上海から導入した六号を七号とし、五号と七号の間に三号の半分の六号活字を作ることで、大きさの段階を滑らかにすることができます。明治19年9月に刊行された築地活版の六号活字の見本帳には、漢字が8,834字収容されています(図1)。明治41年3月の六号見本帳が約9千字ですので、この程度が六号1書体の漢字数といってもいいかもしれません。ほぼ五号活字と同じ漢字数ですので、このサイズの使用頻度が高いことがわかります。 |
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そしてもっとも興味を引くのは続き字の平がなの記事です。明治8年に生きている人々の日常の文字生活は毛筆手書きの連綿体〈れんめんたい〉(続け字のことです)が基本です。連綿体に慣れた人々にとっては一字づつの活字で組まれた文章を見たり、読んだりするには戸惑いと違和感があったと思われます。活字制作の現場では自分達が慣れ親しんでいる連綿体を、活字で再現できないかと模索するのは自然なことでしょう。明治24年7月刊の『印刷雑誌』第1巻第6号の19頁は東京築地活版製造所のカラー広告ですが、そこには四号の美しい楷書漢字活字と流麗な連綿体平がな活字を使った漢字仮名交り文の見本が掲載されています(図2)。この連綿体平がな活字は人々の要求を充分に満たしたと思われるほどのできばえです。頁の左端には六号活字で「活字種版師〈たねばんし〉竹口芳五郎」「印刷技手坂本虎馬」と組まれています。連載第7回『無名無冠の種字彫り師』で紹介した築地書体の基礎を作り、書体の改良に生涯をかけた種字彫り師竹口芳五郎が生み出した書体です。これは単体の活字をつなげていく方法ではなく、最初から二字連字、三字連字で作ってありますので、金属活字のきりしたん版や木活字の嵯峨本などと同じやりかたです。この広告の組見本には、単体活字は「に」の変体仮名「尓」1字のみが使われているだけで、ほかにどのような単体文字があったのか残念ながらわかりません。大冊『聚珍録』を三省堂から刊行した府川充男氏に尋ねたところ、この連綿体活字を使った実際の印刷物は見たことがないとおっしゃっておられます。もしかするとこの広告のためにわざわざ作った可能性もあるかもしれません。 |
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東京日日新聞の記事にある二字、三字続きの平がなは、この『印刷雑誌』の広告を飾った連綿体平がな活字ではありませんでした。では東京日日新聞の記者が見た続け字の平がなはどのようなものであったのかと思って探しましたところ、その答えになりそうなものがありました。 明治11年3月刊の平野活版製造所『活版総数目録全』、これは四号活字の総数見本帳で、漢字はロンドン伝道会のサミュエル・ダイアによって父型彫刻が開始され、ダイアの死後北米長老会印刷所華花聖経書房から転じたリチャード・コールによって完成を見たものです。これに組み合わせる仮名は長崎の池原香穉〈いけはらかわか〉が版下を書いたとされる、三谷幸吉のいう「和様」ですが、その他に「つづきかな」というのが掲載されています。これは甲之部、乙之部、丙之部、丁之部の四種で、 甲之部 連続しない単体の文字 166字 となります。脈絡は字面の左右中央下、あるいは左右中央の上下、あるいは左右中央の上にあり、この脈絡が上手に接続して連綿体のように見える仕掛けになっています。つづきがなには変体仮名も含まれていますが、連綿風に構成するには680字が必要です。最少単位で最大効果をあげるのが活字の大きな役割ですが、4種類の平がなをどう組み合わせて文章を作っていくのかとなると、組版担当者の研ぎすまされた感覚が要求されますし、組版時に左右にブレないように正確に組まなくてはなりません。その前の種字彫刻のときに脈絡の位置をいつも同じところに設定しなければなりませんし、つながった脈絡が不自然でないような作り方もしなければなりませんから、これはけっこう大変な作業ですね。活字の字種も普通の4倍必要となり、その上に組版でも苦労するとなれば使い勝手は悪く、評判をよんだとしても広く使われるということはむずかしいかもしれません(図3)。 |
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1847(弘化4)年、柳亭種彦〈りゅうていたねひこ〉の著作が突然ウイーンで刊行されました。もちろん日本語での刊行です。印刷刊行はウイーンの王立印刷局 K.K.Hof- und Staatsdrukerei in Wien です。ウイーン版の表題は Sechs Wandschirme in Gestalten der Verga¨nglichen Welt です。 戯作者〈げさくしゃ〉柳亭種彦、本名は高屋彦四郎知久で天明3(1783)年の生れといいます。家は二百俵取りの旗本です。学究肌で蔵書家としても知られています。伊狩章は自著『柳亭種彦』の中で次のように書いています。 「彼は評判の蔵書家であると同時に、無類の愛書家だった。糸が切れ、ぼろぼろになった古書を自分でとじ直し、さらに裏うちまでしたという。本を愛し、古書を探索することが種彦の唯一の道楽だった。角田竹冷によれば、種彦は袴羽織に小刀をおびて、古書肆朝倉屋の店へ座りこみ、古本の中で一日暮すこともあったという。ほかに嗜好のない彼にとって、古本あさりが最も楽しいひと時だったのであろう。」 東洋学者アウグスト・フィッツマイヤー(August Pfizmaier)の序文では、原著は著者柳亭種彦、画は歌川豊国、「文政一八年」(文政は13年までで、18年はありません)に江戸で刊行された木版印刷物で、ウイーン王立印刷所が収蔵しているものを、beweglichen Typen gedruckt (直訳すれば可動活字印刷です。英語の Movable Type に相当します)で覆刻したとあります(図5)。 王立印刷所収蔵のこの本は、文政4(1821)年永寿堂が刊行した柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』〈うきよがたろくまいびょうぶ〉で(図6)、種彦の代表作の一つとされています。「此書〈ほん〉に無い物は」からはじまる序文はこの本の特徴を示していますが、伊狩章のかいつまんだ文章がわかりやすいので、以下に引用します。 「(今までのこの手の本の特徴である)お家騒動・敵討・怪異譚のたぐいと異なり、きわめて尋常の趣向であることを述べ、それと関連して、人と屏風は曲がらねば役立たぬなどというが、不正直ではなお世渡りができぬ。この作中の人物はみな誠実によって生きつらぬいたし、この屏風もまっすぐのままで立つ新形である、とすこし勧懲の意をつけ加えておく、と述べている。」 『浮世形六枚屏風』は近松門左衛門の『心中刃〈やいば〉は氷の朔日〈ついたち〉』を改作したものだそうです。近松のものは最後は心中で終りますが、種彦は心中を決心した大阪中之島の米商人佐吉と芸者小松が、佐吉の母親の手紙に救われめでたしめでたしで終わらせます。二人が心中を決意する場面は、近松の名作『曽根崎心中』のお初徳兵衛の道行きを暗示させる作りになっているとのことです。 覆刻版と原版を比べてみると、原版の雰囲気を壊さずに、それも金属活字を使って忠実に再現しようとしていることがわかると思います。この本を覆刻するために作った連綿体活字について、フィッツマイヤーは「日本以外でいまだかつて作られたことのない日本語の活字」といっています。そしてこの活字を開発した局長アロイス・アウエル(Aloys Auer)を賞賛しています。原版は手書きの本文と絵を版下にして木版に彫り、バレン刷りをしたいわゆる整版本です。元は手書きですから文字の字形は同じ字種でもすべて違います。そのような刊本をしかも活字で、面影を変えずに再現しようとしたとき、活字の字種を増やすほかありません。1字・1字種という活字の原則は通用しなくなります。字形と活字幅(縦組みですので上下の幅です。左右は同じ寸法です)を変化させなくてはなりません。ではどのくらいの活字を用意したのでしょうか。 |
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ウイーン版が刊行された30年後の1876(明治9)年ですが、ウイーン王立印刷局は自局が所有する世界の120言語の文字活字を収録した総合見本帳 Alfabete des gesammten Erdkreises を刊行します。世界の全民族のアルファベットとでも訳すのでしょうか。手持ちの資料は Zweite Auflage とありますので第二版ですが、初版がいつ出たかはわかりません。この中に『浮世形六枚屏風』の覆刻のために作られた活字の全字種と思われるものが JAPANISCH として載っています。それによりますと、
●ひらがな481字 です。活字字種の合計は856字で、ひらがなの多さが目につきます。JIS X 0213 : 2000 では拗促音小字等を含めなければ、ひらがなとカタカナはともに73字です。原版に近い覆刻を目指したため、ひらがなで6.5倍、カタカナで1.9倍の字種を作ったことになります(図7)。 |
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日本伝道を望みながら志を果たせず1870(明治3)年アメリカで没したイギリス人宣教師ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim)の遺稿が、フィッツマイヤーの助力でウイーンで刊行されます。日本語訳聖書『約翰〈ヨハネ〉伝福音書』『路加〈ルカ〉伝福音書』(1873年)、『使徒行〈しとぎょう〉伝』(1874年)の3冊ですが、印刷出版はウイーンのアドルフホルツハウゼン(Satz. Druck. Holzhausen)です(図8)。この日本語訳聖書を組んでいる活字は『浮世形六枚屏風』を覆刻するために開発された連綿体活字です。ただし聖書を組むためには漢字が足りませんので、「天・神・聖・血・経」などを補刻しています。キリスト教史の川島第二郎先生は、平野活版が開発した連綿体活字はこのベッテルハイム聖書に影響された結果だと推測されております。ネーサン・ブラウンの強い意向もあったかもしれません。 昭和4(1929)年7月16日京城大学教授奥平武彦はウイーン市カンドル街19番地に建つアドルフホルツハウゼンを訪れ、ベッテルハイムの日本語聖書を組んだ活字が残っていることを確認し、「……辞し去らんとしてこれらの活字を譲り受くるを得るかと云へば即座に之に応じ潰した鉛の價として若干少額の値を云つて呉れた……」。このとき奥平武彦が入手した日本字活字は約40本といわれています(昭和53年12月8日付『朝日新聞』掲載「最古の和訳聖書」)。奥平は「維納〈ウイーン〉の日本活字」(昭和12年2月25日発表、発表誌不明)を執筆し、この連綿体活字を紹介します。 日本語聖書の蒐集家で研究者門脇清はこの文章を読み、この活字を見たいと熱望し、昭和15年9月24日中国東北地方への旅行の帰りに京城(今のソウルです)に立ち寄って、奥平の自宅を訪ねます。門脇は奥平にウイーン活字の譲渡を嘆願し、応諾されます。 門脇は奥平の持つ半分を譲られましたが、帰る途中大阪在住の聖書蒐集家上田貞次郎にその半分を贈りました。上田の活字は戦災で失われ、また奥平の活字も行方不明となり、結局門脇の活字だけが生き延びたのです。昭和46(1971)年門脇清の蔵書が山梨英和短期大学(現山梨英和大学)図書館に寄贈されることになり、ウイーン活字6本が同図書館へ入り、昭和53(1978)年3本が関西大学図書館(千里学舎)に寄贈され現在に至りました。今もウイーンにあるアドルフホルツハウゼンには連綿体活字は保存されていないようですので、1847年制作の活字は日本にある9本だけが現存する総てでしょう。 両図書館に収蔵されているウイーン活字のサイズは、1ポイントが0.376ミリのディドーポイントで作られており、変体仮名2字と二重の繰り返し記号1字の3字が16ディドーポイントの幅(左右)を持ち、カタカナ6字が12ディドーポイントの幅(左右)を持っていました。縦組みの日本字は左右幅(横)が活字のサイズを示します。欧文活字は横組み専用ですから上下幅(縦)が活字のサイズです。ウイーン活字の大きさ(上下幅)は、文字固有の大きさの再現を目指すためいろいろのサイズを持たせているようです。 活字幅が2種類あることは組版を複雑にするのではないでしょうか。カタカナは12ポイントですから、ひらがなの16ポイントと組むときには左右に2ポイントを入れるのか、左に4ポイント入れて文字を右に寄せる組版をするのか、今のところわかりません。 毛筆手書きを再現する連綿体活字は、その効果を生み出すためには複雑な組版を強いられることと、組版者の美的センスが不可欠なため、組まれた美しさは理解できたとしても使用に二の足を踏む結果となり、長く行われなかったのかもしれません。 →PDF版 (2.1 MB) |
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●参考文献/関連書籍 |
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