タイポグラフィの世界  
   
 
 
小宮山博史
 
 
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  上海美華書館から導入した明朝体活字を改良し、現在の活字書体の基礎を築いた東京築地活版製造所は、昭和13(1938)年その栄光の歴史に幕を閉じました。明治3(1870)年本木昌造が長崎で新町活版所を設立してから68年目のことでした。
 この築地活版の最後の種字彫り師が安藤末松(あんどうすえまつ)です。明治40(1907)年4月生れ、本名は仁一ですが、昭和天皇のお名前が裕仁ですのでおなじ字をはばかって末松と名のっていました。高等小学校を卒業した大正10(1921)年築地活版の彫刻部に小僧さん(見習いです)として入所しました。14歳のときです。
 もうだいぶん昔のことになりますが、私は安藤末松さんのお宅を訪ねてお話しをうかがったことがあります。昭和45(1970)年4月6日のことです。東京都中央区湊町の、バス通りから細い道をすこし入った木造二階建ての、三軒の棟割り長屋の左端であったと記憶しています。一階は広い板の間で、たぶん仕事場であったのだと思います。私がお目にかかったときは病気療養中で、すでにお仕事は辞めておられましたから、広い板の間はがらんとしていました。二階の座敷でお話しをうかがったのですが、その当時私は活字史の知識はほとんどなく、築地活版という名前を知っている程度で、ましてや活字がどうやって作られていたのかなど考えたこともありませんでした。今思えばまことにもったいないことをしたと悔やむばかりです。築地活版という日本で最初に作られた活字製造所の活字種字彫り師として、製造所を背負って立っていた方ですから、こちらの質問が的を射ていれば多くの新しい事実を知ることができたはずなのです。まさに「後悔先に立たず」。ただの興味本位でした。
 安藤さんは私がインタビューした2年後の昭和47年5月24日、活字一筋で65歳の生涯を終えられました。安藤さんの生涯については、片塩二朗さんの『活字に憑かれた男たち』の中の「最末期のパンチカッター・安藤末松」が唯一のものだと思いますが、片塩さんは愛情あふれる優しい筆致でまとめておられます。
 以下の文章は私が昭和45年にお訪ねしたときの聞き書きですが、何年か前に偶然出てきたもので、いままでどこにも発表したことはありません。頼りない聞き書きではありますが、安藤さんの活字をめぐる簡単な略歴にはなっていると思いますので、ぜひお読みいただき、職人の生活を知るきっかけになれば嬉しく思います(以下の聞き書きは、昭和45年当時の安藤末松氏が発言されたとおりに再現したものです)。

   
  「東京築地活版製造所は今の築地三丁目ですか、コンクリートの三階建でした。彫刻の部屋は北向きの角のところで、入社したときは職人さんは5人ばかりいたですね。それから毎年小僧を5、6人づつ入れたんですが1年もたないんですね。私と一緒に入ったものも皆出て行っちゃって、結局私一人だけ残ったもんで、小僧が私一人、あと職人さんと大工さんが一人です。大工さんは木で込め物を作るんです。インテルも木ですね。
 職人について彫るのを習ったんですが、師匠の竹口先生に見せると皆ほうり投げるんです。しゃくにさわってねェ……。だから皆やんなっちゃったんですね。そのころ竹口さんは55、6歳でした。それから2、3年たって死んじゃって、鈴木の彦さん(彦次郎?)が課長になった。それが私の師匠となって後を継いだんですが、そのとき9ポイントが始まった。竹口さんは五号が主で、鈴木さんも五号だけれど、私になって細9ポで、晃文堂の藤田さんが細9ポを始めて、私にもやれってんで始めたんですよ。
 私は初め木彫りで黄楊に彫った。彫って鏡で見るんじゃなくて捺してみたんです。目は良かったんです。彫れって初めていわれたのがゴチックでして、このときは桜に彫りました。字は紙に書いて貼って彫るのでなく、直に筆で逆に木の駒の上に書くんです。自分じゃ書けないと思ったけれど、やれっていうもんでやったんですね。だんだん書けてきてそれから明朝になったんです。手本は五号のゴチックの見本があるんで、それで字を習いました。大正の末にはゴチックはだいたい揃っていましたね。その当時一組揃った漢字は1万2、3千あったですね。それが一番多い。お手本になったゴチックを書いたのは鈴木彦さんで、彫りかたを教わって、ゴチックがまとまったもんで、明朝に移った。一号ゴチックを百字くらい彫ったでしょうね。
 明朝の練習は、初め一号で、木の上に書けるようになって三号で、次が五号だね。五号でなんとか及第して、これでよろしいってんで、それでも1日に4本ぐらいしか彫れないですね。で、できた4本を持って竹口さんのところへ行くと、放り出しちゃうんです。結局1本ぐらいしか残らないんで……。駄目だっていうけど、とにかく小僧もいないし下もいないし、しょうがないからともかく自分で今度はものにするってんで……。1本でも助かればいいけど、助からないときもあるんです。
 字を作る順序は思った字から作るんです。私は“木”から彫ります。“木”は彫りいかったです。次は“王”ですかね。同じ偏の字をまとめては彫らないです。始めは10本彫れないですが、職人になってからは8〜10本彫りますが、具合の悪いのは捨てて、まあ8本ですね。10本彫ればやれやれで自分で強いなァと思ったですね。竹口さんは20本ぐらいで彫り直しは1日1本ぐらいでしょう。とにかく竹口さんはとにかく早くあがったです。のちに細9ポを全部やりましたが、そのころは20本ぐらいいったでしょうね。25〜30歳ぐらいのときです。竹口さんが手本にしたのは支那(引用者註:中国のことを当時このように呼称。安藤末松氏の発言通りに採録。以下同様)もんで、今の四号でした。上海から買ったんです。四号は竹口さんは気にくわなかったんです。
 その時分日当は1円50銭でした。竹口さんも日当ですが、いくら貰っていたか知らないですね。でも5円じゃなかったです。鈴木さんのは3円80銭でした。
 かなを彫ったのはやはり竹口さんです。竹口さんは習字を習っていませんね。初めて「つ」を彫ったとき丸みがまずいといわれました。明朝を2、3年やってかなをやったんです。「つ」をだいぶ彫って、これでいいなと思って持っていっても、落第しちゃうんです。竹口さんはただ駄目だというだけで、教えてくれないんです。この字はこう書けと教えないんです。持っていったものをポイッとほりだしやがるんです。とにかくひらがなは及第するのはかなり時間がかかったんです。職人に及第したのは18ぐらいでしょう。かなは19〜20歳です。
 会社で9ポを彫っているうちに、晃文堂の藤田さんが細9ポを始めたんです。これぁいいってんでやりはじめた。細9ポはマネたもんで、結局私が揃え始めたんですが手がおっつかないんで、活字を、築地活版の強いやつを細くしちゃうんです。「サライ」をやって、とにかく標準を7千個にしろってんです。前に9ポを太く彫ってあるから、それをさらったわけです。そのうちに築地がつぶれちゃったんです。6千字ぐらいは作ったです。築地も細9ポを売り込んだんですが、たいして売れなかったんです。
 どうしようかと思ってたら、そのうち凸版から声がかかってその腕でもったいないから来なってんで、そんなら江口吉郎という弟弟子も入れれば私も行くといったんだけど、凸版じゃウンといわないんです。そのうち組合が反対しはじめた。結局凸版へは組合が怖いんで行かなかったです。それで私は八丁堀の玉野っていう、母型屋ですがね、来いってんで行きました。玉野には1年ぐらいいましたが、これといってまともなものは彫らないです。補充ぐらいです。補充専門です。補充じゃやりがいがないです。
 細9ポは藤田さんが持ってきたってまえにいいましたが、彫り師は大阪の馬場さん、さあ名前は知りません。馬場さんが初めてサライというのを持ってきたんです。私もサライ専門になって、職人を7人ばかり集めて家で始めたんです。よそでどうのこうのといっても見向きもしないで、サライ専門でやったんです。
 彫刻刀についてお話ししましょう。黄楊に彫る刀はタガネで、刀鍛冶のところで買ってくるんです。始めは彫れないから先を折っちゃうですね。私のは薄いです。だからすぐ折れるんです。刀を見せたくないって人はいますね。
手本ですか? 1万2千の支那文字でかっこうを見るんです。字がわからないときには築地の五号の見本帳を見て真似てやるんです。支那のものとも竹口さんのものとも違いますね。自己流です。他のと違えてやろうという気持ちはないですね。五号の見本帳を見て、先生が彫った字はいい字だなと思うだけで……。自分の字には感心したことはないですね。自分で感心したのは、広島で展覧会をやったときに築地活版でも見本だせというので、初号より大きいんですよ。とにかくでっかい字を作ったんですよ。金でなく木活字です。日数はくったけど、期限が切れて直すことができないでだしたんです。7字だと思います。
 3日か4日かかったですね。とにかく骨折って彫っただけに良くできました。誰もいなけりゃ、見てくれる人もいませんでした。そのときは自分ではこの字はいいなと思いました。28か29歳です」

   
































































サライ
  入所した2年後、大正12年9月1日の関東大震災に遭い、安藤さんが通った三階建のビルを含めて築地活版の施設と設備は壊滅してしまいます(図1)。しかし震災からの復興は早く、翌大正13年7月19日には鉄筋コンクリート四階建のビルを竣工させています(図2)。
 安藤さんは最初に一号ゴシックで彫刻の修業を開始し、次に明朝の一号で種字の駒に筆で文字を書く練習をし、それが書けるようになると三号、そして五号とだんだん小さくなっていきます(図3)。いま思い出しましたが、安藤さんはお子さんの学校へ行くと、担任の先生から「安藤さんは活字の字は上手だけど普段書く字はそれほどでもない」といわれたと苦笑していました。それはそうですよね、活字の種字は逆に書いて彫ります。文字のバランス感覚は逆字でないと判断できません。これは安藤さんだけでなくその他の彫り師の方も同じであったようです。
 安藤さんは明朝を2、3年やってからかなに進み、「つ」を彫って竹口さんに見せますが、みんなほうり投げられてしまいます。どこが悪いと教えてくれなかったといっておりますが、言葉で曲線の不備を表現するのは至難の業です。それと曲線の作り方は時間をかけて手に覚えさせなければ、役に立ちません。自分のことですみませんが、はじめにリョービ印刷機販売(現在のリョービイマジクス)のチーフデザイナー島野猛さんに書体デザインを習ったときにはやはり曲線が書けませんでした。特に「攵」のような交差するハライが難しかった記憶があります。島野さんは交差部が曲線のもっとも曲がるところだとおっしゃるのですが、新人の私には墨入れはもちろん下書きの鉛筆でも思ったような形にならなかったのです。しかしかなり時間が経ったある日(2年ぐらいでしょうか)突然書けるようになりました。これは手が覚えたのです。竹口さんも自分が経験したように、安藤さんにも体で覚えよということを、無言で種字をほうり投げることで伝えたかったのかもしれません。安藤さんは入所して4年目に職人となりましたが、満足のいくかなが彫刻できるようになるにはまだ数年を要したようです(図4)。
 張りのある曲線がかなの命です。形を覚え、どのような曲線でどこに最大の太さを与えるかは、くり返す試行錯誤の末に自得するほかないのです。これは金属活字の彫刻だけではなく、現在のデジタルフォントのデザインにもいえることです。修業の量に比例して書体の品質は高くなります。そして最初に習った師匠の腕の優劣がもっとも大きく影響します。新人は師匠の癖を批判なく受け入れてしまいます。その癖を消し去るには修業時間と同じくらいの時間が必要になります。師匠の腕が悪かったら話しになりません。
 活字彫刻の修業はどこでもこのような「無言とげんこつ」の教育方法が普通であったと思われますが、特例ですが朝日新聞の書体を作った太佐源三さんは言葉で教えてくれたということを、お弟子の武林明さんに以前うかがいました。これはとても珍しいことだと思います。
 この聞き書きで興味深いのは、師匠の竹口が手本にしたのは、上海から買った四号の支那文字で、しかし竹口は気に入らなかったというところです。これはロンドン伝道会のサミュエル・ダイアが制作を開始し、リチャード・コールによって1851年頃には完成していたパンチドマトリックスから鋳造された活字ではないでしょうか。美華書館は上海にあったロンドン伝道会印刷所墨海書館が閉鎖するとき、この活字を入手しているはずです。築地活版は美華書館から活字を導入していますので、ロンドン伝道会製の四号である可能性は高いと思います。そうであれば字形の出来はそれほど良くありません。竹口が気に入らないのも当然でしょう。しかし明朝体活字の改良がおおいに進んでいる大正12、3年になっても、もはや古くて出来の悪い四号を手本にしていたのはなぜでしょう。安藤さんも字形を見るのは1万2千の支那文字といってます。1万2千字という漢字数は安藤さんのお話しにもありますが、その当時の漢字一揃いの文字数です。もしかしたら築地活版は字形の規範を自社内で策定することなく最初から中国製の活字に頼っており、そのため築地活版には字形の手本は支那文字四号という不文律が存在していたのでしょうか。いまならそのような質問もできたのですが、昭和45年当時の私では考えもおよびません。

   

図1

図2



図3
























図4




















墨海書館
  安藤さんの聞き書きにある師匠の「竹口さん」とは築地活版の種字彫り師竹口正太郎のことです。『印刷世界』第1巻第2号(明治43年9月20日、印刷世界社)の「職工表彰録」には竹口正太郎の略歴と肖像(図5)が載っています。明治11(1878)年2月入社の竹口正太郎このとき43歳、築地活版の彫刻課長の職にあります。年齢からいって種字彫り師として脂の乗りきっている時期でしょう。竹口正太郎を「竹内庄太郎」と書くものもあります。亡師佐藤敬之輔の『ひらがな 上』(文字のデザインシリーズ2、1964年、丸善)の末尾に「設計者の略伝」として26名の種字彫刻者、ベントン彫刻機用原字設計者、写植原字の設計者を紹介していますが、佐藤も「竹内庄太郎」としています。佐藤はこの略伝を関係者への聞き取りでまとめたようですが、事実関係に問題があったとしても、唯一無二のもので今となっては貴重な資料です。また昭和29(1954)年9月16日付で日本印刷工業会が安藤さんに贈った表彰状(表彰は本木昌造銅像除幕式に行われました)も「竹内庄太郎」です。しかし竹口正太郎の表彰録は本人が存命中ですので名前を誤記するとは思えませんから、私は「竹口正太郎」が正しいと考えています。佐藤によれば竹口正太郎の生没年は1854(嘉永7)年〜1926(大正15)年ですが、表彰録では明治43年で43歳ですから、明治元(1868)年生れが正しい。安藤さんが修業に励んでいた大正11、2年ごろ55、6歳という記憶はほぼ正確です。明治元年生れですので、築地活版入所は11歳ということになります。
 以下に略歴の全文を紹介します。漢字は旧字ですがここでは新字体に直しました。

「氏は明治十一年を以て、斯業に従事し、三十有余年のひさしさに亘り、汲々として職に従ひ、懇ろに徒弟を誘掖すること田村氏(引用者註、築地活版母型課長田村銀次郎、このとき五八歳)に譲らず、氏の厳父茂平氏は彫刻家と知られしが、永年同社に勤続し、先年故人となりし竹口芳五郎氏は、茂平氏に就て彫刻術を学び、その技神に入るものありき、而して氏は斯かる関係より芳五郎氏に師事し、厳格なる指導薫陶を経て同所に入所するに至れり、爾来技を練り業を励み、病を冒し、孜々として研究の結果、師芳五郎氏の高弟として知られ、遂に現今の地位を得るに至れり、入社当時に於ては五号楷書製作に従事し、次に五号明朝第一回の改正の衝に当りあらゆる辛酸を甞め、更に朝鮮文字(引用者註:ハングルのことを当時このように呼称)製作に至りては、惨憺たるものありしと云ふ、氏は故人の意を守り、主として漢字製作に従事す、而して其主義とする所は、仕事の多寡に拘泥せず、比較的数を少なくして、丁重に仕上ぐるにあり、是同所製造の活字の好評を博する主因の一たらずんばあらず、氏も亦屡々賞に與かり、明治三十六年四月には東京印刷組合より賞を授けられ、翌三十七年には二十五年勤続の表彰に浴せり」

表彰録の文章ですから多少の誇張もあるかもしれませんが、事実だけを抜き出せば、

1.竹口正太郎の父茂平は彫刻家で、築地活版の名人彫り師竹口芳五郎はその弟子
2.竹口正太郎は竹口芳五郎に師事したのち築地活版に入社
3.入社当時は五号楷書を担当
4.五号明朝第1回改正を担当
5.朝鮮文字を製作
6.漢字1日の種字彫刻数は品質を第一にして、少ない
7.明治36、37年に表彰される

父親の茂平は印鑑の彫刻師か木版の彫刻師だと思われます。竹口正太郎の師竹口芳五郎は茂平に習ったとありますので、同じように印鑑か木版の彫刻を最初は生業としていたことがわかります。『毎日新聞百年史』の技術編を執筆された古川恒(ふるかわひさし)さんだと思いますが、木版の彫り師には竹口姓が多いと何かに書かれていたと記憶しています。
 五号明朝第1回改正は、美華書館small picaサイズと築地活版五号の字形比較から明治17年頃と思われます。正太郎18歳、入所7年目です。この若さで師竹口芳五郎とともに美華書館由来の五号活字の全面的改刻を担当したのですから凄い。
 朝鮮文字の制作とは、築地活版が印刷を担当した『明治字典』に使用されたものです。この本は『康熙字典』の活字による覆刻で、見出し語である漢字にはカタカナで漢音と呉音を表示し、四声記号付きで北京音をいれてあります。その下には英訳、そして各部首の最後に朝鮮文字つまりハングルでの発音を加えた画期的な企画でしたが、明治18年5月に第1巻を刊行し明治21年7月の第18巻(四画「牛」「犬」部)を最後に未完に終りました(図6)。

   


図5




































































図6
  竹口正太郎の師にあたる竹口芳五郎の略歴は『本邦活版 開拓者の苦心』(津田三省堂、1934年刊)に三谷幸吉が調査(正しくは三谷の執筆でしょう)したものがあります。貴重な資料ですので、以下に全文を載せます。「初期の版下書師 竹口芳五郎――明朝書体の完成――」がこの文章の見出しです。漢字は新字体に直しています。

「初期の活版版下書としては、何人も異議なく竹口芳五郎氏を推挙するに違ひない。氏の厳父は土方伝左衛門と云つて、氏は其二男、天保十一年に生誕された。幼時より能書家としての聞え高く、長ずるに及んで書道教授などにより生活を支持してゐたが、維新の変革、西洋文明の移入等によつて、書道を顧みるもの尠なく、従つて氏の生活も、これより漸く荒廃に赴かんとしたのである。
 明治五年、氏は遂に意を決して東京神田和泉町の街頭に出て、自ら版下を書き、印判や木版の彫刻に従事しつゝ、僅かに憂悶の情を晴してゐた。然るに当時神田の佐久間町で、活字の製造販売を試みられてゐた平野富二氏に見出されて、早速版下書として雇聘された。これが抑も氏が活版の版下書に後半生の心根を打ち込んだ第一歩であつたのである。
  氏の書風は既に高雅、出群の器ではあつたが、これを発見した将相平野氏無くむば、流石の竹口氏も或は巷間の一老書家乃至は平凡な彫刻師として終つたかも知れない。
斯くて氏は四六時中、筆を友とし、筆を生命として、活字書体の樹立、乃至は改良に精魂の限りを打ち込んだのである。即ち築地活版所の書体の多くは氏によつて、成し遂げられたもので、殊に今日の明朝体に対する氏の努力と功績は未来永劫没却する事の出来ない事実である。氏は実に三十七年の永き間を、築地活版所の為め否本邦活字書体の向上の為めに貢献したのであるが、明治四十一年八月二十五日突如急逝された。築地活版所では前日迄何等の異常なく勤務した氏の急変に対し、社を挙げて哀悼した由である。享年六十九歳。
  法名 慈雲院芳誉積善居士。」

この文章の側にこれに関係する囲み記事で「平野富二氏の眼力」があり、築地活版に40余年勤続の有働武雄の談話を収録しています。

「平野先生は豪放磊落の裡に細心緻密の性格を持つてゐられた。而も人を見るの明は易者以上の眼識があつた。竹口氏が路傍で印判を彫刻してゐる動作を見たゞけで、早速直談判に及び「貴下が毎日道傍で彫刻して儲けるのは幾らかも知れぬが其の倍額支払うから明日から私の工場に来て彫刻をして呉れぬか」と談合されて連れて来たなどは、全く常人の思ひも及ばぬことである。この竹口氏が後年有名な種板師になつたのだから先生の眼は高かった。」

前記の文章から竹口芳五郎の生没年は天保11(1840)年〜明治41(1908)年であり、築地活版への入所は明治5年であることがわかります。本木昌造の命を受け東京に進出した平野富二は、この年活版印刷所を神田佐久間町旧藤堂邸内(今の和泉町です)に設立しています。芳五郎はそれ以前は竹口茂平に習った印鑑彫刻で糊口を凌いでいたこともわかります。竹口芳五郎の略歴は、本木昌造、平野富二を尊敬し、そして築地活版を愛した三谷幸吉の賞賛たっぷりな文章ですが、しかし日本の明朝体活字の基礎は竹口芳五郎によって作られたというのは間違いのないことかもしれません。
 東京築地活版製造所の種字彫り師の系譜は、まず竹口芳五郎が代表し、芳五郎亡き後は竹口正太郎が後を継ぎ、次いで鈴木彦次郎、そのあと安藤末松となって築地活版がなくなります。鈴木彦次郎までが木彫種字彫りでしたが、聞き書きにもあるように安藤さんからは木彫種字彫りのほかに地金(じがね)彫りもサライもするようになりました。
 築地活版だけではなく、その他の活字製造所で働いていた種字彫り師の名前は、ほとんどが表に出てくることはありません。築地活版という日本の活字を牽引した有名企業であったから、これだけの名前が残ったのだと思います。

   


























































地金彫り
  もう四半世紀以上前のことですが、岩田母型製作所の種字彫刻で活躍された清水金之助さんにお手紙を差し上げたことがあります。そのころは岩田母型の社長を務めておられた高内一さんの知遇を得ておりませんでしたので、清水さんのお名前は東京蒲田の呑川の近くにあった芦田母型のご主人に聞いたのではないでしょうか。手紙の内容は彫り師のことや技術を話して欲しいというものでしたが、清水さんからご返事はなく、私も手紙を差し上げたことをもうすっかり忘れておりました。ところが昨年高内一さんから連絡があり、岩田母型のOB会の席上清水さんから高内さんに「こんな手紙が出てきたがどうしよう」という相談があったというのです。この相談がきっかけとなり、お手紙を差し上げてから29年を経てやっと清水金之助さんにお目にかかることができました。
 清水金之助さんは、安藤末松さんが築地活版に入所した翌年の大正11年のお生まれで、現在83歳です。安藤さんの聞き書きのなかで「大阪の馬場さん、さあ名前は知りませんが」といっている馬場さん、本名は馬場政吉ですが、サライの創始者で地金彫り(直(じか)彫りともいいます)の名人といわれている方です(図7)。馬場政吉は岩田母型(岩田百蔵が大正9年に創業)の種字彫刻を一手に引き受けていましたが、清水さんは高等小学校を卒業した14歳のとき近所の人の世話で馬場政吉の内弟子になります。初めて馬場政吉のところへ連れて行かれて、マッチ棒ほどの大きさの活字材に字を書いているのを見て、不器用な清水さんは驚いて逃げ帰ります。しかし馬場政吉の不器用なものほど大切に育てるという一言でこの道に入ります。兄弟子は写真で見ると6人おります(図8)。馬場さんのことを清水さんは「旦那」と今でも呼んでおりますが、石川県の出身で、とても研究心が強かったと話しておられます。
 清水さんの仕事は1年ほどは掃除などの手伝いだけで、2年目になって兄弟子が活字材の表面に字の形を作ってくれ、それを活字のように彫り下げていきます。漢字が一応彫れるようになるまでには4、5年かかったようです。
 希望に応える形で彫刻の実演をしてくださいましたが、図9は直彫り中の清水さんです。彫刻のお仕事を辞められて何十年もたっていますが、どんどん彫っていかれます。きっと体が覚えているのですね。体が覚えた技術は一生忘れないのだと感動しました。
 活字と同じ高さに鋳造した種字用の活字材の上に、定規とデバイダーを使って漢字の水平垂直線を引いたのち彫っていきます。点やハライは書きません。T型の木製の台(名称はないようです)にルーペを挟み、左右にのびる部分の右側に彫刻刀を持つ手を置き、左手には彫刻する活字材を持っています。五本の指すべてを使い活字材を支え、ルーペを覗きながら文字を彫ります。活字のように深く彫り下げるのは文字が彫れてからです。軟らかいといっても活字合金ですから彫刻刀で彫っても力がいります。彫刻刀は刃が両方についていて手前に引くときと向こうへ押すときの二通りに使います。木彫種字を彫る彫刻刀は刃は一方だけです。T型の台は馬場政吉の考案と清水さんはいいます。
 安藤末松さんが直彫りしている写真は『活字に憑かれた男たち』に載っていますが、やはりこのT型の台を使っています。安藤さんのは手を置く横方向の木の両側が垂直ですが、清水さんのは台形です。兄弟子の庭田与一さんのお弟子に大日本印刷で地金彫りをしていた中川原(なかがわら)勝雄さんという方がおられます。リョービ印刷機販売が刊行した『アステ』第1号(1984年6月)の「活字を直か彫りする」に紹介されておりますが、彫刻中の写真はやはり同じようなT型の台を使っておられます。ただ形は微妙にかわっているようです。
 清水さんは活字彫刻を旦那からではなく、兄弟子の庭田与一さんから教わっています。仕事は朝八時から夜9時半までの長丁場で、昼1時間、3時からのお茶の時間30分が休憩時間です。若い清水さんはときには飽きてうつらうつらすると、後ろに背中合わせで座っている庭田さんの鉄拳が飛んできて、40キロ台の体重の清水さんは吹っ飛んだといいます。仕事が終わるとみんなで銭湯に行き、旦那のおごりで寿司や蕎麦を食べたそうです。とても大切にされたと清水さんはおっしゃっています。
 清水さんの聞き書きや岩田母型の書体と技術については、元社長の高内一さんや活字鋳型の研究者伊藤伸一さん、岩田母型の元社員の方々が近年中にまとめる予定でいますので、楽しみにお待ちください。

   

















図7







図8






図9
  安藤さんにしろ、清水さんにしろ、活字彫刻をしたくてこの仕事に入ったわけではありません。14歳で高等小学校を卒業して、仕事を求めて入ったところが偶然にも活字関係であったというだけでしょう。ここが今のフォントデザイナーと違うところです。無言とげんこつにさらされながら、それでも辞めずに耐えたのは、負けてたまるかという意地の他に何があったのでしょうか。修業を重ねるにつれ、腕は上がってきます。腕が上がれば師匠の彫る字がいかに美しいかわかるはずです。すこしでも師匠の字に近づこう、と思うのは自然の流れです。そこには安藤さんもいうように他の人の字と違えようという意識が入る余地はありません。ただただ師匠を追いかけるのみ。
 日本の印刷物のほとんどを組んでいる明朝体は、好むと好まざるとに関わらず基本書体の地位にあります。漢字明朝体を構成するエレメントの形は、基本書体であるかぎり大きく変更することはできません。定型を踏み外すことは読者の目を混乱させます。
 新入りの弟子はまず定型を覚えるところから始めます。連綿と続いてきた定型は独学で獲得するのは難しい。師匠から弟子へと長い時間をかけて熟成されてきたものであって、その現場に身を置いていなければ体得することはできません。長い修業をつみ、ある程度の評価を得て自力で彫刻するようになっても、昨日彫った字よりも今日彫った字のほうが良いのは明らかです。品質は彫刻の数に比例します。ということは終わりのない旅をしているようなものです。完全ということがない以上、彫り師に満足感は決して訪れない。辛い仕事です。そして読者は誰が彫ったかと聞くこともない。良くてあたりまえ、下手な字は問題外です。彫り師は自分で自分を評価しますので、腕を騙すことはできません。まずければ再度努力を傾けるほかありません。しかし努力を尽くしても師匠や先輩の書体を超えて命長らえるものを生み出せるか。そのような幸運に恵まれるのはほんの一握りの人々にすぎません。明治2年、上海から活字制作の技術が導入されて以来、いったい何百人、何千人の彫り師が生れそして去っていったのでしょうか。
 ほとんどの人は意識しませんが、日本の文化、精神、技術はこの明朝体によって受け継ぎ、そして引き継がれていくのです。
 日本の明朝体は無名無冠の職人の努力の上に成り立っています。

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●参考文献/関連書籍
『活字に憑かれた男たち』片塩二朗著、1999年、朗文堂
『本邦活版開拓者の苦心』津田伊三郎編、1934年、津田三省堂
『ひらがな上』佐藤敬之輔著、文字のデザインシリーズ2、1964年、丸善
『アステ』第1号、1984年、リョービ印刷機販売
『株式会社東京築地活版製造所紀要』1929年、東京築地活版製造所


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