タイポグラフィの世界  
   
 
 
小宮山博史
 
 
  →PDF版 (1.7 MB)  
  浮世絵師三代目広重は「東京第一名所銀座通煉瓦石之図」で、銀座二丁目東京日日新聞日報社の玄関の石段を上ろうとしている岸田吟香〈きしだぎんこう〉の後ろ姿を描いています。本名は銀次ですが友人に「銀公」と呼ばれていたために号を吟香と付けた彼は、毎日新聞の前身である『東京日日新聞』創刊間もない明治6年9月に主筆として入社し、口語体で雑報(社会記事)を書いて名を馳せました。
 まだ明治と改元する前ですが、目を病んで長い吟香は友人の蘭学者箕作秋坪〈みつくりしゅうへい〉の勧めで、横浜谷戸橋際にある寺院風の屋根を載せたアメリカ人医師の施療所を訪れます(居留地39番。川を渡れば本村〈ほんむら〉で今の元町です)。アメリカ人医師の名は James Curtis Hepburn、北米長老会宣教師で眼科医、日本ではヘボンと呼ばれ、本人も「平文」と記す人です。吟香を1ヵ月以上にわたって悩ました眼病は、ヘボンの点眼治療で7日ほどで嘘のように全快します。吟香はヘボンについて次のように書いています。
「ヘボン先生に逢ひて、其徳高く、行なひ正しく、靄然として君子の風あるに感じ、深く敬慕の意あり。依て閑を乞ふて高説を承まはらんと云ふに、先生も亦大に喜べり。即ち治療終るに至りて、共に書斎に入りて、談話しけるが、遂に日本の言語文字の事に及べり」
 日本派遣宣教医ヘボンと夫人クララを乗せたサンチョ・パンザ号は1859(安政6)年4月24日ニューヨーク港を出帆します(この5日後の29日にスエズ運河の工事が始まります)。大西洋を押し渡って喜望峰を回り、インド洋を乗り切って香港に着いたのが8月2日。香港で休養ののち出発し上海到着は8月29日、10月1日上海を汽船で出港し10月17日神奈川に到着します。江戸湾に入って本牧の鼻を大きく回り込むと、神奈川を目指す外国人のほとんどが絶賛してやまない緑豊かで美しい根岸村から横浜村への海岸線が続き、そして正面には優しい稜線が天にのびる富士山。ヘボン夫妻もこれからはじまる日本での活動に心を躍らしながら、この風景を船上から眺めていたのだと思います。
 翌18日上陸し神奈川宿の成仏寺を宿舎とします。神奈川宿は開港当時外国領事館の町でした。米国領事館は神奈川関所の少し手前の本覚寺〈ほんがくじ〉(青木橋際、京浜急行神奈川駅のそばで、私が預かる研究所はここから5分です)にあり、英国領事館は滝の川のほとりの浄滝寺〈じょうりゅうじ〉(亡師佐藤敬之輔が眠る寺です。研究所のすぐそばにあります)に、フランス領事館は成仏寺の隣の慶運寺に、オランダ領事館も近くの長延寺に置かれていました。ヘボンの施療所ははじめ宗興寺(浄滝寺の隣)に置かれ、そののち居留地39番に移っていきます。居留地39番は現在では横浜人形の家の隣の横浜地方合同庁舎が建っているところで、「ヘボン博士邸跡」の碑が建っています。
 この治療をきっかけに岸田吟香はヘボンの人柄にうたれ、編纂中の和英辞典の制作に協力することになります。高谷道男は自著『ヘボン』(吉川弘文館人物叢書、1986年)のなかで辞書の編集出版の目的を次のように書いています。
 「日本人を西洋文化の理解に向わしめ、他方外国人には日本を正しく理解せしめんとする意図があったとともに、また日本語の充分な知識と理解なくしては立派な日本語の聖書の翻訳事業は達成し得ないことをよく知っていた。日本人に正しいキリスト教を伝えるには立派な完璧に近い聖書の翻訳とその出版がなければならない」

   





  ヘボン夫妻は岸田吟香をともない、1866(慶応2)年10月18日横浜から上海に向いました。膨大な原稿を印刷するのは上海県城小東門外に建つ北米長老会印刷所美華書館です。上陸したヘボン達がどこへ投宿したかはわかりませんが、 考えられるのは二つです。ひとつは美華書館に滞在すること。教会が運営する印刷所ですので、工員のほとんどは信者です。
 1902年建設の美華書館印刷工場の例でもわかりますが、敷地内あるいは館内に礼拝堂や工員用の住宅を持っていたとしても不思議はありません。外国人、ここではアメリカ人ですが、彼ら用のレジデンスも持っていたかもしれません。もう一つは、県城南門外のすぐそば(美華書館からですと南へ1.5キロほどのところです)に北米長老会が1860年に建てた教会清心堂がありますので、ここを宿にして美華書館に通った、想像できるのはこの二つです。
 岸田吟香が上海滞在中に書いていた『呉淞〈ウースン〉日記』には、口語で作業の様子が書かれています。
「もうぢきお正月だ。けふのやうな日は、ゆどうふに、どぜうなべかなにかうまいもので、くだらねエじやうだんでもいつて、四五人集まつて、酒でものむほうが、からにゐるよりかよさそうだ。ここにゐてもおもしろくねエ。早く日本へかへつて、上野へいつて、格さんとみさん等と一盃〈ぱいいち〉のみたいもんだ」(慶応2年12月24日)
「和英対訳辞書ももはやはんぶんできあがりになつたとおもふ。こんやまとまる≠ニいふことばの処のあたりまで校正した。どれねてほんでもよもう」(12月25日)
「○よる、よい月夜なり。○けふ英語をさきにして和語をひく方の字書がはじめて版になつてくる」(慶応3年3月6日)
「けふ、へぼん、T〈ママ〉クシヨナリの序を書く」(3月15日)
「和英字書のうちへいれる為に、日本の仮名、万葉仮名、カタカナ、ひらがな、いろはの仮字五体の板下をかく」(3月21日)
「てんき、おほよし。あたゝかすぎて、すこしあついくらゐなり。楊花如雪舞青空といふけしきなり。ゆうべ蚊が出たから、けふ、かやをつる。けふ、ヘボン、対訳辞書(デクシヨネリ)にあたらしく名をつけてくだされ、ほんのとびらがみにかくやうに、よい名を、といふから、和英詞林集成とつける」(3月23日)
「雨ふる。和英語林集成のとびらがみのはんしたをかく。雙鈎〈そうこう〉でかいたが、よくできた。詞の字を語に改めて、いちりんねあげをした。へぼん、だら五十枚くれる。これまで久しくほねを折て、此ほんを手伝て、こしらへたから、おれいにくれたるなり」(3月25日)
ヘボンの辞書の書名は『和英語林集成』(図1)ですが、最初は『和英詞林集成』と名付けていたことがわかります。吟香は詞(四)の字を語(五)に替えて一厘(林)値上げしたと冗談をいっています。
 ヘボンは1866年12月7日付のウオルター・ラウリー宛書簡に美華書館の作業のことを記していますので、『ヘボン書簡集』(高谷道男編訳)から該当部分を抜いてみましょう。
「印刷の仕事はゆっくりしております。ガンブル氏の印刷技師としての腕前と天分とがなかったら、全くできなかったでしょう。これまでのところではあらゆる障害を超えることができたのです。彼が最も美しい日本字の活字を銅製の母型に作り、一揃いの日本字の活字を鋳かためた(引用者註、鋳造のこと)のです。英語の大文字(引用者註、スモールキャップ)、アクセントのついている母音や、イタリックなどがないし、また上海でそれらを得ることができないので、ガンブル氏自ら母型を作って、必要なだけを鋳かためました。これだけお話ししたら、印刷がどれ程むずかしいものかがおわかりになるでしょう。このために一ヶ月以上を費やしたのです。わたしどもは着々と仕事を進めております。僅か活字をならべるだけに五人の植字工を使って、二日に八ページの印刷をしあげたいと思っております。やっと四十ページおわり、A・BとCの一部ができたわけです」
 この手紙ではCの一部まで40頁ができたと書いています。『和英語林集成』の40頁目は「Chi-kemuri」〈hからiまでスモールキャップ〉(チケムリ、血煙)からはじまり、「Chin-dzru」〈hからuまでスモールキャップ〉(チンズル、陳)で終ります。印刷に必要な活字の準備に1ヵ月以上をかけたといっていますので、印刷開始は11月27日前後になりましょうか。岸田吟香の12月25日の日記では「まとまる」まで校正したとありましたが、「まとまる」は260頁にあります。校正刷りで校正したのち活字を差し替えて正式の印刷にかかりますので、1日にそれほど多くは印刷できないと思います。ヘボンは1月25日付私信で「辞書は目下、一日六ページの割で印刷中です」と書いています。この時点から印刷完了までは3ヵ月以上かかるとみても間違いはないと思います。できあがった辞書2冊(未製本です)を携えてヘボンと吟香が日本に戻ってきたのは1867(慶応3)年5月です。上海滞在はほぼ7ヵ月に及びました。
 ヘボンの手紙の日付はあたりまえですが太陽暦を使っています。岸田吟香のほうは旧暦で書いていると思うのですが、印刷の進行状況と日記の内容を合わせて考えると、もしかすると太陽暦で書いているのではないでしょうか。
参考とする先行文献がなかったため『和英語林集成』の見出し語は、ヘボンが日常会話や読書から収集したと書いています。ヘボンは船の中で覚えた日本語「コレハナンデスカ」を連発したのでしょう。ここで思い出しましたが、金田一京助博士がアイヌ語の収集を始めるとき、アイヌの子供達にめちゃくちゃなものを書いて見せ、これはなにかという言葉を引き出し、それを覚えて連発したという話しを読んだ記憶があります。
 望月洋子氏は自著『ヘボンの生涯と日本語』の中でこの辞典の特長を次のように書いています。
「和英の部の見出し語はローマ字で掲げ、片カナと漢字を並べ、用言には活用を簡単に示し、品詞を記してある。ついで語の意味をやさしい英語で説明して引用例を示し、できるだけ同義語を加えるという方針をとっている。初版採用語は二万七百七十二。これから日本語を学ぼうとする外国人にはもちろん、日本人にも役に立つ、信頼しうる近代辞書の誕生であった」
 初版は1,200部といわれています。判型は縦26.6cm横17.5cm、序文・凡例等12頁、和英の部558頁、Indexと名づけられた英和の部132頁の堂々たるものです。出版費用を回収するために1冊18両という高値でした。貧乏書生には高嶺の花の辞書はのちには1冊60両で取引されたとのことです。各藩は先を争って購入し、瓦解間近の幕府もこの辞書を大量に買ったようです。『和英語林集成』初版は明治改元後の早い時期に完売しました。

   





































雙鈎




図1
  タイポグラフィの面からこの辞書を見てみますと、驚くような処理がなされています。対訳辞書を見慣れた今の人にはなんの違和感もないと思うのですが、左横組です。当時の人々には日本語左横組は想像の外であったはずです。縦組で右から左へ綴るのがあたりまえであった時代に、自分達の常識とはかけ離れた左横組のこの辞書をどのような思いで眺め、頁を繰って語彙を調べたのか、印象を聞いてみたい欲求にかられます。しかし「なんだか変でござるのう」と思いながら、語彙を引くほうに夢中になって組み方向は気にならなくなっていったのではないでしょうか。
 また余計なことを思い出しました。国語辞典、縦組があたりまえと思っていますが、株式会社三省堂は1991年5月日本最初の横組の国語辞典である『デイリーコンサイス国語辞典』を刊行しています。はじめて手に取ったとき、新鮮さとともにあれっという印象をもったことを覚えています。
 またまた横組と言えば思い出すのは、昔の映画やテレビ番組の「遠山の金さん」のお白州の場面、最後の最後に片肌を見せて「この桜吹雪が見えねえか」。
 カッコよく見栄を切る金さんの後ろに見える扁額はいつも「至誠一貫」です。これは右横書きですが、1字4行と理解すべきで意識は縦書きです。
 ヘボンは原稿を横組で書いています。高谷道男編訳の『ヘボンの手紙』の中の、1865(慶応元)年8月10日付の弟スレーター・ヘップバーン宛私信には次のような文章があります。
「辞典の編集は着々と進捗しています。それは大きい働きです。わたしを助ける既刊の参考書もなく、開拓的な仕事ですから。わたしの考えとしては立派な著作になると思います。最初に日本語をローマ字で書き、ついで、おなじ意味を漢字で横書きにします。漢字は日本では中国とほとんど同じように用いられています。会話の一部――定義は、意義と用法を説明するために日常会話の文かまたは書物から引用して、最後に同義語を書きました。同義語はご承知のように広範囲にわたるもので、かなり労力と研究を要します。」
 ヘボンの手書き原稿は高谷道男の著作に図版として使われていますが、すべて横書きで書かれています。美華書館は原稿どうりに組んでいきました。1頁あたりの組版代は2ドルです。
『和英語林集成』が刊行されて2年後、日本薩摩学生の『和訳英辞書』が美華書館で印刷されます(図2)。見ていただくとわかりますが、見出しの英字と品詞はあたりまえですが横組で、日本語訳は縦組になっています。これが江戸時代の対訳辞書の一般的な組み方です。欧米人は「英語やオランダ語に縦組はありません」というでしょうし、日本人は「わが国の文字には蟹が歩くが如き横綴りなどござらぬ」とつっぱねるでしょう。だから英字は横組になり日本語は縦組にするほかありません。
 ではヘボンは和欧混植の左横組を強い意思で行ったのでしょうか。ヘボンにとって日本語が縦組であることを知っていたとしても、縦組にこだわることなく、自分がいつも書いている横組をごく自然に使い日本語もそれに合わせたのだと思います。それにたいして薩摩学生は日本語を横組にするなど想像すらしたこともなく、今まで見ていた対訳辞書のスタイルをそのまま踏襲したにすぎません。
 和欧混植の組方向が横組に定着したのがいつであるのかわたしにはわかりません。そこで辞書の研究で大きな成果をあげておられる境田稔信さんにお尋ねしましたところ、辞書蒐集家で研究者惣郷正明の著作を調べてくださいました(惣郷コレクションは没後散逸しました)。境田さんは明治21年以降に日本語横組が多くなってきたことから、この年が横組への転換点ではなかったのでしょうかとおっしゃっておられます。
 欧文は横組と日本語は縦組という異なる文化のせめぎ合いの中で、数々の試行錯誤が行われたであろうことは想像に難くありません。対訳辞書に日本語左横組が受け入れられるまでに、明治改元後20年という時間が必要だったのです。しかしこの20年が長いのか短いのかわたしにはわかりません。
 今手元にある資料の中で、過渡期の姿を示す興味深いものに明治8(1875)年刊行の『語学独案内』があります(図3)。本書は左に英語で文章を、右にその日本語訳を掲げてありますが、日本語は1行ですむ場合は右横書きです。訳文が1行では終らない場合、たとえば訳文が2行になるときは1行2字詰の縦組で右から左に綴っています。英語の文章が長くなれば訳文も長くなり1行3字詰、1行4字詰となり、ときには1行8字詰もでてきます。使用活字は5号で、右横書き1行の場合は字間2分アキ、複数行のときは字間ベタ組、行間2分アキです。漢字はすべてにルビを振っていますので2行縦組みは横組に見えます。
 活字の話しがでてきましたので、『和英語林集成』の活字について見てみましょう。見出しの単語は英字で、最初の文字は大文字で次からはスモールキャップで組んであります。次にその語のカタカナ表記と漢字、そのあとにイタリックで品詞を示し、単語によってはイタリックで訓読みを置き、最後にその意味を英文で綴っています。見出し語の英字表記はのちにヘボン式ローマ字と呼ばれるものです。
 漢字はウイリアム・ギャンブルの発案になる、木彫種字を使った電胎母型から鋳造されたスモールパイカサイズ(11ポイント)で、英字と同じサイズです。
 この漢字活字は1864年には完成していたもので、日本の漢字活字はこのスモールパイカの漢字活字を複製することから始まったことはすでに述べました。
 ここに組まれているカタカナは、これ以前の美華書館の印刷物に使われてはいませんので、『和英語林集成』を組むために新しく鋳造されたものと思われます。字形の美しさから見て日本人の手になることはわかりますが、しかし誰がこのカタカナの版下を書いたかはわかりません。岸田吟香である可能性はすてきれませんが、彼の『呉淞日記』の前半部分が失われているためにこの間の事情がわからないのです。
 カタカナは漢字にたいして字面がずいぶん小さく作られていますが、これが普通の大きさで、カタカナを大きく作るのはつい最近のことです。細かい分析はまだ試みていませんので、はっきりしたことはいえませんが、見た印象では活字の大きさ(上下方向)はスモールパイカサイズですが、活字幅(左右方向)は狭い。活字表面は長方形のようです。漢字活字のように正方形のボディにしますと、英字や漢字より小さくなりますので上下にインテルを入れなければならず、組版は煩雑になります。ですから活字幅はすべて同じだと思います。組版を見ていると行末を揃えるためかカタカナの字間が同じ字でも少し違っています。たぶんここに薄い込め物(スペースといいます)を入れて調整しているのでしょう。しかしもしかすると何種類かの活字幅を持っている可能性も排除できません。欧文活字は文字によって活字幅が異なることは当然ですので、カタカナにそのシステムを応用しようという発想が起きても不思議ではありません。
 同一頁の中の同じ漢字活字でも、偏と旁を作字しているものが混在しており、漢字の中には活字ケースに収容されている数が少ないものがあることがわかります。ギャンブルが行った使用頻度調査の結果から活字ケースに入れてある活字数が違うのでしょう。

   




































図2



























図3










スモールキャップ


ヘボン式ローマ字
  ヘボンの『和英語林集成』は、同一ボディサイズ内に異なる言語文字を鋳造し、それを混植するという前例を作りました。日本は美華書館の活字をそのまま導入しましたので、この方法を継承しています。金属活字は足し算だけで成り立つシステムですから、組版にはとても都合がよかったのですが、これがのちに和欧混植に大きな問題を投げかけるとはギャンブルもヘボンも岸田吟香も思いもよりませんでした。
 世界との関係が深くなるにつれ、日本語組版の中に欧文が入ってくる頻度は確実に高くなり、今まで見えなかった混植時の欠陥が目につくようになり、デザイナーやタイポグラファーは解決策を求めて四苦八苦するようになりました。デザイナーやタイポグラファーが求めている理想的な混植とは、
1.日本語活字と欧文活字のスタイルが似ており違和感を感じさせないこと
2.日本語活字と欧文活字が、見た感じの大きさと太さで調和すること
の二点だと思います。デザイナーやタイポグラファーの多くは従属欧文を使わず、外国製の欧文フォントを日本語書体と組み合わせて使うことが多いようです。その理由は従属欧文の品質の問題なのでしょうか。書体デザインを本業とする私が漠然と感じていることですが、この方法で右に書いた理想の混植が可能か、ということです。異なる時代、地域、目的、方針で作られた書体を組み合わせたとき、違和感なく調和すると信じる人はいないのではないでしょうか。時として、スタイル、大きさ、太さが合う場合があるかもしれませんが、それはあくまで偶然の産物であって、偶然に頼っていては書体デザインやタイポグラフィの問題としての根本的な解決にはならないと思うのです。
 金属活字時代、混植について「相互に一点の類似性のない欧文書体が、木に竹を接いだ様に邦文の中に混用しているのは、頻々と目に触れる例であるが、まことに見苦しいかぎりである」と発言したのはプライベートプレス嘉瑞工房〈かずいこうぼう〉を主宰する井上嘉瑞〈いのうえよしみつ〉です。昭和16(1941)年の発言ですが、調和融合する書体を選べという意見は今でも充分に通用します。
 印刷博物館の近く新宿区西五軒町に、井上嘉瑞の衣鉢を継ぐ高岡重蔵〈たかおかじゅうぞう〉さんの活版印刷所嘉瑞工房があります。高岡さんは金属活字による混植の問題点を早くから指摘しておられ、論文「和欧活字の混ぜ組み」(『欧文活字とタイポグラフィ』所収)の中で、実際に活字で組み分けた67例を示して解説しています。高岡さんが和欧混植の不調和感を作り出す要因としているのは、
1.和文と欧文活字の文字線(字づら)の黒みの違い
2.和文と欧文の文字線の筆法の違い
です。わかりやすい言葉に置き換えれば、ライン・ウエイト・スタイルの違いが調和を妨げる要因である、ということでしょう。たしかに高岡さんが指摘される三つの要因が異なる言語書体の混植につきまとう問題点で、これをクリアすればよりよい混植になることはいうまでもありません。これも今でも充分に通用することです。
 日本語書体と欧文書体を横組みで混植しますと、欧文は上にあがってどうしても視線を乱します。日本語書体がボディのほぼ中央に文字の重心を揃える重心システムで、いってみれば焼き鳥の串と肉の関係です。串が重心の通る線で、それに大小様々な大きさの肉がついていたとしても並んで見えます。それにたいして欧文はベースラインを基本線とする4本の線上に整列するラインシステムで、重心という意識はありません。この相異なるシステムを同じボディの中で処理すれば、基本線をベースラインとする欧文はあがってしまいます。特にオールドスタイルの書体はディセンダーが長いのでベースラインは高くなります。
 ウエイトを感じさせる要素には大きさと太さがあります。欧文書体の見えの大きさはxハイトで決まります(同じポイントサイズで正統的スクリプトたとえばバンクスクリプトと、センチュリーローマンを組みくらべてみますとすぐわかります)。日本語書体とくに漢字と同じ大きさに見せようとすれば、キャップハイトとxハイトを大きくするほかありませんが、欧文はディセンダーがありますので同一ボディサイズ内での処理はむずかしい。太さについては、欧文書体はべつに日本語書体に合わせて作られたわけではありませんので、合うはずはありません。
 スタイルは近似という許容範囲内で判断されますので、ラインやウエイトよりクリアできる可能性は高いと思われますが、字形がまったく違いますので同じスタイルに作るということはできません。
 高岡さんは次のような補正方法を考えます。和欧同一サイズを使う場合は和文活字の下にインテルを入れ、欧文活字は上にインテルを入れてラインを補正するか、あるいは1サイズ大きい欧文活字を使うかですが、ともに組版を煩雑にするだけで、特に前者は「労多くして実の少ない結果に終る」と嘆息が聞こえるような文章を記しています。そして「たとえば9ポイントの母型を8ポイントの鋳型で鋳込み、デセンダの部分を活字の腹側(引用者註、活字表面を正面に見て下の面)に飛び出させて、これを用いればいちおう解決する」としていますが、技術的に可能かどうか私にはわかりません。しかしこの発言は、常に問題となるディセンダーの処理について、同一ボディ内でのデザインではなく、和文と欧文でボディのサイズを変えてデザインしなければならないという示唆ととらえることができるのではないかと、私は感じました。金属活字はボディという実体を持っていますので、金属活字ではこの処理は難しいのですが、次の文字生成システムである写植がこの考え方を敷衍して混植への対応を考えていれば、今デザイナーやタイポグラファーを悩ましている問題のある部分は解決していたと思われてなりません。
 高岡さんが示した67例の混植は、問題点を露出するだけに終っているように見えます。金属活字は同一言語書体だけで文字情報が処理できた時代のものであったのでしょう。

   
  次に出現した写植は、金属活字が持っていたボディはなく、あくまでボディは「仮想」の存在です。実体のあるボディというくびきから解き放たれた写植システムは、多言語の混植を可能にするものであったのですが、その全盛期にあっても混植が今ほど重要視されず、必要性が声高に叫ばれなかったという事情があったとしても、金属活字のデザインシステムをそのまま踏襲し、次世代の新しい文字組のシステムへの模索と構築を図らなかったように思えてなりません。
 新しい技術といえども、前時代の考え方を引きずってしまうものなのでしょうか。
1975年に株式会社写研が刊行した『組みNOW―写植ルールブック』には、混植のための基本ルールが6項目掲げられています。
1.和欧文を混ぜ組みにしたときには、欧文だけが極端に黒くならないような書体を選ぶ。
2.ひらがなの構成や太さに近いカーブやウエイト(太さと黒さ)を持つ欧文書体を用いる。
3.ひらがなの起筆、終筆に近いセリフを持つ欧文書体を用いる。
4.エックスハイト(x-height)の比較的大きい欧文書体を用いる。
5.小文字のaからzまでの長さ(a-z length)が、比較的長い欧文書体を用いる。
6.以上から、一般に、明朝体に対しては、黒さのあったオールドスタイルを、ゴシック体に対しては、黒さのあったサンセリフを用いると無難である。
 写植メーカーが示した注意は、大きさも含めたウエイトとスタイルが近い書体を選べば無難というだけで、重要なラインの調和については記されていません。
金属活字のデザインと同じように、同じ原字用紙を使って混植用の欧文書体をデザインすれば、横組みのラインを考えてどうしてもディセンダーを狭くするほかありません。まことに美しくないプロポーションを持つ従属欧文が嫌われる第一の理由がここにあります。従属欧文を使わず外国で作られた書体を使うとウエイトとラインで頭を悩ますことになります。
 欧文書体を混植するとき、文頭が大文字でありディセンダーの文字が少しでも入っている単語あるいは短文ならば、書体の選択を誤らなければある程度納得できる組みになるかもしれません。しかしすべて小文字でディセンダーの無い単語あるいは短文であったとしたら、大きさとラインで破綻してしまいます。級数を上げれば他の欧文とウエイトで狂いが出ます。大文字だけであったら級数を少し上げて、単語あるいは短文を少し下げることでウエイトとラインを調和させることも可能かもしれません。しかしこれらの補正は根本的な解決にはつながらず、ただの小手先だけの一時しのぎにすぎないものです。

     
  デジタルフォントの創成期は、写植が金属活字のデザインを踏襲したように、写植のデザインを踏襲することから始まったのでしょう。主だったデジタルフォントの供給元が写植メーカーであったこと、新興のフォントメーカーは写植書体のタイプデザイナーや書き文字に優れたデザイナーに書体開発を委ねて、フォントのラインアップを整備するだけで精一杯という事情もあったのでしょう。ですから日本語書体のデザインと同じ原字用紙に欧文をデザインするという常識を打ち破ることができなかったと思います。
 創成期の混乱や試行錯誤がやっと落ちつき始めた今、前二者が解決できなかった混植に配慮した従属欧文の開発が進んでいます。大日本スクリーン製造のヒラギノ明朝体は欧文のベースラインを少し上げることで、ディセンダーが広くなり、重心が日本語書体に近づいています。Adobeの小塚明朝も字游工房の游明朝体も混植を強く意識していることがわかります。これらの書体は、日本語書体と欧文書体では仮想ボディを変えてデザインする、という発想に立っていることは明らかです。しかしまだまだ解決しなければならない問題があるはずです。これからがデジタルフォントの本格的な開発の段階に入るのではないでしょうか。
 そのとき他言語との混植は避けて通れない重要な要素になります。デジタルの世界は国境を楽々と越えていきます。同一ライン上に各国の言語書体が等価で綴られること、これほど平等なことはありません。思想の違い、富の差、技術力の優劣、人口の多寡などその国の文化にとってたいした問題ではないといったら怒られるでしょうか。言語書体こそその国の文化を端的に表します。私達はいま異なる文化を前にして、より真摯な姿勢が求められているのだと思います。

     
    連載第5回「書体の覆刻」を読んで下さった仙台在住の内田明さんから嬉しいお便りをいただきました。
 私は「築地体後期五号仮名」に切り替わったのは明治30年代中頃と書きました。内田さんは国会図書館の近代デジタルライブラリーに登録されている築地活版の印刷物を精査され、その結果前期五号が後期五号に切り替わるのは「明治31年から32年にかけて」と結論づけておられます。デジタルライブラリー以外の印刷物にあたれば判断が変わるかもしれないとおっしゃっておられますが、この判断は変わらないように思います。
 内田さん有難うございます。今後もご指摘を待っております。

     
           
    ●参考文献/関連書籍
『先駆者岸田吟香』杉山栄著、1952年、岸田吟香顕彰刊行会
『新聞事始め』杉浦正、1971年、毎日新聞社
『ヘボンの手紙』高谷道男編訳、1976年、有隣堂
『ヘボン書簡集』高谷道男編訳、1979年第四刷、岩波書店
『ヘボン』高谷道男著、1986年新装版、吉川弘文館
『ヘボンの生涯と日本語』望月洋子著、1987年、新潮社
『国字問題の研究』菊沢季生著、1931年、岩波書店
『欧文活字とタイポグラフィ』欧文印刷研究会編、1966年、印刷学会出版部
『図録 タイポグラフィ・タイプフェイスのいま。デジタル時代の印刷文字』2004年、女子美術大学
『増補版印刷字典』日本印刷学会編、1991年、印刷局朝陽会
『組みNOW−写植ルールブック』写研・写植ルール委員会編、1975年、写研

←第5回 書体の覆刻
→第7回 無名無冠の種字彫り師