タイポグラフィの世界  
   
  あ
   
  ●Adobe-Japan1-5
2002年9月にアドビシステムズ社が策定した,20,317グリフのグリフセットの規格。アップルコンピュータ社が策定したAPGS(Apple Publishing Glyph Set) が元になっている。商用印刷物で必要とされる大量の漢字・非漢字を含むほか,JIS第三・第四水準漢字や表外漢字字体表字形をフルサポートする。20,317グリフのうち漢字が約12,700グリフを占め,残りが仮名・欧文・約物・記号などの非漢字である。Mac OS Xには,Adobe-Japan1-5に対応した5書体のヒラギノProフォントが標準搭載されている。
(この註は大日本スクリーン製造株式会社による)
   
  ●アンチック体
漢字セットを持たない明朝風の両仮名だけの太い書体。漫画の吹き出しのように漢字はゴシック体,仮名はアンチック体を使うことが多い。また国語辞典の見出し語もアンチック体で組む。
 書体の豊富なラインアップで有名な青山進行堂活版製造所の明治40年頃の総合見本帳『活版略見本』にある「アンチック形」は,太い楷書体でヒゲを取ったヒゲ文字に近く,われわれが持っているイメージとはほど遠い。
 昭和9(1934)年発行の錦精社活版製造所の総合見本帳『業界の便覧』を見ると,「アンチツク形活字」として一号サイズから六号サイズまでと,12ポイントと9ポイントの8サイズが掲載されているが,すべて明朝風の仮名で,一号と三号は覆刻した築地体一号太仮名,三号太仮名そのものである。
 写植では写研に太さを変えた3書体,モリサワも同じく3書体を出している。デジタルフォントではモリサワは11書体ある。イワタとフォントワークスもリリースしている。
閉じる
         
あ
         
●印刷史研究会
平成7年,小宮山博史,府川充男,日下潤一,故木田元,前田成明の5名で発足した活字印刷研究会。通説にとらわれず,印刷物を第一資料として日本の近代活字史を明らかにすること,日本・中国・韓国の活字研究者と提携しアジアの近代漢字活字史を構築することを目標として,研究成果を『印刷史研究』(学術刊行物指定)に発表。『印刷史研究』誌は第8号まで刊行(第7号までは在庫なし。第8号は残部少々)。停滞の後今年春第9号を刊行予定。第9号の執筆者は中国の活字研究家潘吉星氏の「中国金属活字技術の起源」と在日朝鮮人学者任展慧氏の「日本における李樹廷の活動と『明治字典』」の二人。『印刷史研究』は予約出版のため,予約については佐藤タイポグラフィ研究所(〒221-0051横浜市神奈川区幸ヶ谷16-6)までお問い合わせください。
         
あ
         
●英華書院
London Missionary Society Press。この印刷所は1843年12月上海にも進出し墨海書館と名のった。持ち込んだ大きな印刷機は牛を動力としたため,詩に書かれたり,文化人の日記の中にも記録されているほど上海人の話題になった。アメリカ長老会印刷所が寧波から上海に進出した1860年12月以降数年ののちに解散。印刷機器は処分された。
         
    ●江川活版三号行書仮名
書家久永其頴の版下を使った日本行書活字史上もっとも個性的な仮名書体。片仮名のウエイトが強い特異な設定だが,筆法による結果なのかどうか,はっきりわからない。『印刷雑誌』明治24年10月号の江川活版の広告に,大阪で模造販売しているが品質不良につき注意という文章があり,江川行書の人気が高いことがわかる。
 
書体見本
         
か
         
●楷書体
印刷・表示用書体の一種。毛筆楷書を活字化したもので,最も早く制作された楷書体は明治8(1875)年発表の弘道軒清朝体であろう。明朝体やゴシック体という基本書体を補完する書体としての役割が主で,本文用書体として使われた歴史はほとんどない。楷書体の一種に教科書楷書体がある。これは小学生用教科書に使われる楷書体で,児童の筆記文字と変わらないように字形がデザインされている。また楷書体の名称の一つに正楷書体があるが,これは上海の漢文正楷印書局が作った楷書体の名称で,書体分類の一項目には相当しない。
       
    ●活字
通常「活字」というと金属活字を想像するが,写植書体もデジタルフォントも活字と呼んでよい。活字の性格は繰り返して使うことができ,どこで使われてもいつも同じ字形であることが基本であるとするならば,金属であろうとフィルムであろうと点の集合であろうとそれは文字生成のシステムの違いであって,活字としての役割はなんらかわりがない。活字は中国語で,英語ではMovable Typeともいう。ともに活字の性格をうまく表現しているのではなかろうか。
   
       
    ●活字の基準寸法
日本工業規格 JIS Z 8305-1962は,はじめて活字の基準寸法を規定したものである(ただし新聞活字は適用されない)。この中に記載された寸法表には明治初年以降使い続けられてきた「号数制」の号数表記は無く,各号数に相当するポイントを右にずらして表記している。しかし「備考」欄には「なるべく使用しないものとする」と書いている。
 JIS規格は,並行して使用されている「ポイント制」と「号数制」を整理し,ポイント数値で表記している。解説では「号数制活字のうち,四号(13.75ポイント)および一号(27.5ポイント)は基本活字である五号(10.5ポイント)と倍数関係が合わないので,これを廃止し,それに代えて13.125ポイント(従来の新四号)および26.25ポイント(従来の新一号)を新たに設けた」とある。
 活字の実測データが記録されたのは,明治42(1909)年1月韓国政府印刷局の技手高木徳太郎が築地活版の二号以下七号までをポイント計器で測定し, 韓国龍山印刷局刊行の『印刷術』に発表したものが最初ではないか。
 昭和2(1927)年6月刊行の矢野道也『印刷術発達史』(大阪出版社)には,東京大阪の活字製造所5社の活字の大きさ・幅・高さの測定値が掲載されているが,大きさのばらつきが目立つ。各社によって大きさ・幅・高さが異なることは,号数制の活字サイズに明確な規格が伝わっておらず,先行鋳造所の寸法に倣ったことの他に,営業方針から他社の寸法と差をつけて他社の活字と混ぜて組めないようにすることもあったのではないかと思われる。余談ながら『印刷術発達史』を印刷したのは谷口黙次の谷口印刷所だが,谷口黙次は本木昌造が明治3(1870)年大阪に長崎新塾出張大阪活版所を作ったとき,派遣された一人である。
   
       
    ●活字サイズ……号数制
明治5(1872)年以降日本における金属活字サイズの呼称。その出自と名称は上海美華書館の『教会新報』に掲載した活字販売広告による。美華書館広告は「号」を活字サイズの呼称として使ったのではなく,「一番目」「二番目」と大きさの順に番号を振っただけであった。この順番を活字サイズの呼称としたのは,ウイリアム・ギャンブルに教えを受けた本木昌造である。本木は一号の上に初号を創設し,美華書館では六番目の大きさであった活字を一つ下げて七号とし,五号の下に新たに六号を配した。日本の活字史では「鯨尺」一分を基本にして大きさを設定したといわれていたが,誤り。美華書館が使用していたアメリカの活字寸法をそのまま流用したもので,一号は24ポイント(以下印刷物からの測定値で,約8.55ミリ),二号は22ポイント(約7.6ミリ),三号は16ポイント(約5.6ミリ),四号は13.5ポイント(約4.8ミリ),五号は11ポイント(約3.7ミリ),七号(美華書館では六番)は8ポイント(約2.8ミリ)である。のちにこの号数サイズは倍数関係が成り立つように寸法が手直しされたが,金属活字の衰退とともに今ではほとんど使用されない。念のためにJIS Z 8305-1962『活字の基準寸法』に書かれている号数サイズの名称と寸法を下に示す。
 初号…14.76ミリ 一号…9.224ミリ 二号…7.379ミリ 三号…5.535ミリ 四号…4.612ミリ 五号…3.690ミリ 六号…2.767ミリ 七号…1.845ミリ 八号…1.348ミリ
   
       
    ●活字のサイズ……ポイント制
活字サイズとしてのポイント制を最初に考えたのはフランスのピエール・シモン・フールニエで,1764年のことであった。フールニエのポイントは図示したスケールが不正確であったことと,基準としたシセロ活字(12フールニエ・ポイント)の鋳造所を明示しなかったため, 正確さに疑問が生じたという。
1770年頃同じくフランスのフランソワーズ・アンブロアーズ・ディドーは,この不正確さを改善し,それまでの活字の大きさの呼称を廃止してポイント数で表示するという提案をおこなった。ディドーポイントはフランスの古いフート尺ピエ・デュ・ロア(324.84)を使っている。その12分の1を1プス(27.07)といい,1プスの12分の1を6ポイントとしたので,1プスは72ポイントであるから1ポイントは0.3759ミリになる。1886年アメリカではマッケラー・スミス・アンド・ジョルダン社のパイカ活字の12分の1を1ポイントと決めた。1ポイントは0.3514605ミリである。わが国ではアメリカンポイントが採用されているが,インチからミリへの換算で1ポイント0.3514598ミリとなり,アメリカンポイントと小数点5位以下が異なるが,5位以下の差は無意味なため切り捨てて,1ポイント0.3514ミリとしている。日本でアメリカンポイントが最初に紹介されたのは『印刷雑誌』(明治24年4月号)で,「亞米利加ノ活字定点法」と「亞米利加定点法ニ就テ」である。同誌8月号は東京築地活版製造所よりのアメリカンポイントについての「寄稿」を掲載している。アメリカンポイントで最初に活字を作ったのは東京築地活版製造所で明治27年である。これ以降日本の活字サイズは号数制とポイント制の二本立てとなった。パーソナルコンピュータ上の1ポイントは, 1インチを72分の1としたもので,1ポイントは0.352777となるが,小数点5位以下を四捨五入して0.3528ミリとしている。
   
       
    ●活字見本帳
活字販売会社が発行する活字見本と注文書をかねた小冊子。所有する総ての活字書体を少ない文字で見せる総合見本帳と,ある一定のサイズの総ての文字を収録した総数見本帳の二つがある。金属活字時代ではこの二種が発行されていたが,写植書体・デジタルフォントでは総合見本帳だけで,総数見本帳は今までに発行されたことがほとんどない。大日本スクリーン製造は千都フォントライブラリーの『書体総覧』を総数見本帳と総合見本帳を統合した編集で刊行。
『書体総覧[壹]明朝体・行書体編』『書体総覧[貮]ゴシック体編』。
   
       
    ●活版印刷
15世紀中頃ドイツマインツの人グーテンベルクによって発明されたという。鋳造した金属活字で文章を組み,インキを活字表面に塗り,紙を被せて印刷機でプレスして印刷物を作る。グーテンベルクの発明したこの活版印刷術は発明と同時に完成した技術であって,システムは現在にいたるまで基本的には変わっていない。日本にヨーロッパの活版印刷術が伝わったのは天正18(1590)年で,天正遣欧使節は印刷機や印刷機材を携えて帰国し,翌19年には早くも印刷にかかっている。これらは「きりしたん版」と呼ばれるものであるが,慶長19(1614)年のきりしたん追放令によって西欧式の印刷活動は終息し,次に西欧印刷術が日本に入るのは250年後の明治2(1869)年である。
   
       
●角寸法
活字の大きさ表す用語のひとつで,例えば角寸法3.8ミリなどという。日本の活字は正方形の中でデザインされるため,天地方向の大きさと 左右方向の幅は同じ寸法である(欧文書体は文字によって幅が異なるデザイン)。金属活字で,種字を原寸彫刻する場合は角寸法いっぱいに文字が彫刻されることが多いが,本文用の小さいサイズに使う拡大原図(通常2インチ50.8ミリでデザインされる)の場合は,角寸法の約90パーセントを基準枠とし,この中に収める。ベタ組みでも文字間は使用サイズの10パーセントを維持でき,文字の重なりが回避できる。角寸法の大きさと中に収められた文字の大きさは一致しない。この枠の設定は写植書体やデジタルフォントの制作にも踏襲されている。
       
    ●カナモジカイ
外交官僚の山下芳太郎の提案で大正9(1920)年11月「仮名文字協会」(改組して大正11年「カナモジカイ」となった)が創設。カタカナを国字とする運動を展開。カタカナによる左横書きで,欧文のラインシステムを導入したタイプデザインが特長。デザイナーとして内閣印刷局の猿橋福太郎,松坂忠則,ミキ・イサムなどが活躍。
   
       
    ●勧工寮
現在の国立印刷局。ウイリアム・ギャンブルの印刷・活字製造の講習を受けた人々は二派に分かれ,一つは本木昌造の新町活版所にゆき,もう一派は長崎製鉄所に残り,後に東京に移り工部省勧工寮活字局となる。組織の改編にともない名称を次々と変えて昭和27年8月大蔵省印刷局となり,平成15年4月独立行政法人国立印刷局となる。
   
         
  き    
         
    ●金属活字
鉛を主体とした錫・アンチモンの活字合金で鋳造した四角い長方体の上面に,逆向きで文字や記号が凸の状態で浮き出ている。行間や字間に使うインテルやクワタを組み合わせて文字版面を作る。活字の高さはJISの規格では23.45ミリである。李朝朝鮮では15世紀後半以降銅活字が大量に作られ各種の書籍を印刷した。現存するもっとも早い金属活字による印刷刊本はフランス国立図書館が収蔵する『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節』で,「宣光七年丁巳七月 日清州牧外興徳寺鋳字印施」と記されている。宣光七年は1377年であり,清州はソウルから南へ車で2時間ほどの現清州市である。これを記念する清州古印刷博物館は興徳寺跡に建っている。李朝活字は活字が低く,底は窪んでいて固定材の蜜蝋をしっかりとくわえる役目をしている。
   
       
    ●岸田吟香
岸田吟香がヘボンと知り合ったのは元治元(1864)年4月であった。しつこい眼病に悩まされていた吟香は,治療のためヘボンの施療所を訪れ点眼の治療をうけたところ,7日ほどで全快。ヘボンの清らかな人格にうたれ辞書編纂の助手となった。上海から横浜に帰ってのち,ヘボンの許可を得て点眼薬「精〓水」を日本と上海で売り出した。
※〓は「金+奇」。
   
       
    ●きりしたん版
天正遣欧使節が持ち帰ったヨーロッパ製の活版印刷機と金属活字で,島原半島加津佐,天草,長崎,京都で聖書や語学に関する書籍を印刷刊行。稼働期間は天正19(1591)年から慶長16(1611)年までの20年間で,刊行書は30種を超える。残存点数は極端に少なく,日本が所蔵しているものの多くは重要文化財の指定を受けている。慶長17年のきりしたん追放により,印刷機を含む機材は国外に送られ,その後の足取りはわからない。日本に西洋式活版印刷術が再び入ってくるのは257年後の明治2(1869)年である。本木昌造の招聘によるウイリアム・ギャンブルの講習がそれである。
   
       
    し    
       
    ●原字用紙
昭和20年代中頃,活字母型が原寸の彫刻種字を使った電胎法から,拡大原字を使ったベントン母型彫刻機による母型材への直刻に変わった。拡大原字は通常本文サイズでは2インチ正方が角寸法(40分割された方眼紙)で,その内側に36分割の基準枠(90パーセント当)を設け,そこに下書きされる。その上に下が見える紙(トレーシングペーパーなど)を置いて墨入れする。これを感光液を塗った亜鉛板に合わせて感光し,硝酸液で腐食すると文字面が凹になったパターンができる。これを彫刻機にセットしてカッターで母型材に彫刻すると母型になる。感光させるためにホワイトなどでの修正はできない。修正不可のため墨入れの技術はこのころがもっとも優れていた。
 活字メーカーはのちに写植に参入したが,原字用紙は活字用のものを流用してデザインがなされた。私は前身が活字メーカーである現リョービイマジクス株式会社で書体デザインを教わり,仕事もしたので,インチ寸法の原字用紙を使っている。写植から出発した写研やモリサワは48ミリの原字用紙を使っているはずである。
   
       
    し    
         
●康熙字典
清の康熙55(1716)年に刊行された漢字字書。『説文解字』や『玉篇』をもとにして歴代の字書を集大成したものと『広辞苑』にある。 収録字数は47,035字だが,本文の下に記す古文を加えると49,030字になる。道光11(1831)年に校正・復刻。
       
●弘道軒清朝体
弘道軒は神崎正誼(かんざきまさよし)が創設した活字鋳造所の屋号。清朝体の名称は先行する明朝体に対抗する命名か。書家小室樵山が揮毫した弘道軒清朝体は日本活字史上もっとも峻烈な線質を持つ楷書体である。明治8年9月25日付東京日日新聞第1132号に開業広告を差し込む。この「活字鋳造敬告」には初号から七号までの8書体の見本が掲げられている。明治14年頃この書体をめぐって築地活版との間で日本最初の抗争問題がおこり,築地活版は清朝体活字を作らない,弘道軒は明朝体活字を作らないという条件で決着したというが疑問。東京日日新聞は明治14年8月1日付第3916号から23年2月11日付第5488号まで,約10年間本文活字として使用。書籍を含めこの楷書活字は本文用として使われた唯一無二のものである。種字は金属材への直刻。
       
    し    
       
●嵯峨本
角倉素庵〈すみのくらそあん〉と本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ〉によって木活字を使って印刷された刊本。慶長年間の後半に作られたもので,刊行地の名前をとって嵯峨本という。また開版者の名前をとって角倉本とも光悦本ともいう。もっとも早く刊行されたのは『伊勢物語』で慶長13(1608)年である。用紙は豪華で美しく,造本も見事である。木活字は単体活字のほかに二字三字の平がな連字活字を使い,挿絵とあいまって日本で刊行されたもっとも優れた書籍といえる。連字活字による印刷はきりしたん版の影響があると考える研究者もいる。嵯峨本といわれるものに『徒然草』『方丈記』『新古今和歌集』『百人一首』『三十六歌仙』『二十四孝』などがあり,光悦本と呼ばれるものに『謡曲百番』がある。
       
●サライ
サラエともいう。「浚う」がなまった種字彫刻用語。既製の活字の表面(字面)を目の細かい砥石ですり,彫刻刀でアウトラインを彫り直すこと。安藤末松の聞き書きにあるように太い活字を細める場合にも使え,またわずかな線の移動も可能で,改刻の一方法になっている。この技法は馬場政吉の創案というがはっきりしない。
       
    し    
 
●地金彫り
直彫りともいう。活字と同じ高さに作った活字材の平らな表面に直接文字を凸刻する技術。彫られたものを種字として,ある文字数を組んで電胎液に漬け銅を集積し,それを母型材にはめこんで母型にする方法で,これを直接電胎法と言う。木彫種字の場合電胎は2回必要だが,地金彫りの種字は電胎が1回ですむため,この方法が主流となった。ただし大型活字の場合,鋳造した活字材に鬆(す)が入り内部が空洞になる場合があるため,木彫種字を使う。
       
    ●新聞倍数制
新聞社だけが使う活字寸法。昭和12(1937)年新聞社は1000分の1インチ(これを1ミルスという)を活字単位とし,紙不足が明らかになってきた昭和17年,それまで正方であった本文活字を扁平活字に変更する。活字サイズが小さくなり読みにくくなったため,それまで本文活字の右に付けていた半角のルビを取り,その2分の1を本文活字の活字表面として使用した。天地を100パーセントとすると左右は125パーセントになる。つまり8対10の平体二である。天地寸法は88ミルス,左右寸法は110ミルスとなる。この天地サイズが新聞活字の基本寸法で扁平1倍という。本文活字が大きくなっているにもかわらず扁平活字を使っている理由はなんだろう。正方だと新聞らしくないということか。本文活字だけが扁平であとはすべて正方活字である。5.5倍は本文活字の天地サイズの5.5倍の大きさであることを示している。ただし基本寸法は拡大された本文活字以前の88ミルスにたいする倍数である。現在では本文活字だけが独立したサイズといえるだろう。
   
       
    ●新街活版所
本木昌造が設立した「新街活版所」は後に東京に進出し株式会社東京築地活版製造所となり,日本の明朝体活字の改刻・洗練を担ったが,営業不振をもって昭和13(1938)年清算。本木昌造の事績調査に生涯をかけた三谷幸吉は自著『本木昌造平野富二詳伝』(昭和8年,詳伝頒布刊行会)のなかで,社名の変遷を次のように記録している。
 長崎新塾出張活版製造所,平野活版所,築地活版所,築地活版製造所,有限責任東京築地活版製造所,株式会社東京築地活版製造所
   
       
    ●字体・字形・書体
私は字体はその字がそのとうりに読める文字の骨組みと解釈している。書体は字体にある一定の意匠を施したもので,その結果明朝体・ゴシック体などが生まれる。字体は当用漢字字体表を見てもわかるとうり細丸ゴシック体で表記されることがほとんどである。すると字体も書体で表現するほかないか。JIS X 0213 : 2000『情報交換用符号化拡張漢字集合』の定義では「字体 図形文字の図形表現としての形状についての抽象的概念」「字形 字体を,手書き,印字,画面表示などによって実際に図形として表現したもの」とする。字形は形そのものということか。
   
       
    ●JIS X 0208:1997
『7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化漢字集合』では,一般日本語表記用漢字集合を第1水準とし2,965字,地名人名を含む個別分野用漢字を第2水準とし3,390字,漢字合計6,355字。
JIS X 0213:2000『7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合』では,第3水準漢字1,249字,第4水準漢字2,436字で,漢字合計3,685字。
   
       
    た    
         
●スモールキャップ(スモールキャピタル)small capital
ローマン体小文字のxハイトの大きさに作る大文字。『印刷字典』によれば,文章中,特に注意すべき箇所,あるいは表題・人名・地名・柱・口絵・挿絵の説明に用いるとある。
 ヘボンの手紙からこの辞書のために新刻したもので,美華書館はこのときまでスモールキャップの活字を持っていなかったことがわかる。
       
    た    
         
●セランポールミッションプレス
カルカッタの北セランポールに伝道拠点を置いたイギリスバプテスト教会のケアリー,マーシュマン,ワードの3人が作った印刷所。インド諸言語による聖書翻訳と印刷を行う。またマーシュマンの中国語研究書『中国言法』を1814年に刊行。この印刷所が持っていた漢字活字は3種類である。
       
    た    
         
●雙鈎
文字を写す一方法。書かれた文字の上に薄い紙を乗せて輪郭を正確に写すこと。雙(双)鈎で書いた輪郭の中を墨で塗ることを雙鈎填墨〈てんぼく〉という。
       
    た    
         
    ●大漢和辞典
諸橋轍次畢生の漢和辞典。大修館書店と出版契約を交わしたのは昭和2(1927)年で,昭和18(1943)年に第1巻(1,125頁,文字番号1〜1,444まで)が活版印刷で刊行された。活字種字の彫刻には,岩波書店の書籍の印刷を担った精興社の活字書体の制作者君塚樹石も名を連ねている。昭和20年2月25日の戦災で印刷中の第2巻と組み置き原版と資料一切を消失し,出版は頓挫。戦後戦災を免れた校正刷りをもとに再出発をはかる。組版は写植システムとし,必要な漢字5万字の原字の制作を写真植字機研究所(現写研)の石井茂吉に依頼した。写植による第1巻は昭和30(1955)年11月3日,最終巻である第13巻は昭和35年5月25日に刊行された。最初の契約から33年目のことであった。
   
       
       
         
    ●築地活文舎五号仮名
築地活文舎の創業時期,閉鎖年代など実態は不明。『印刷雑誌』に広告を出した明治30年代始めに登場し,早い時期に消滅したか。活文舎五号仮名は,築地前期五号の欠点を修正するという明確な改刻の方針があって作られたと考えられる。
 
書体見本
         
    ●築地体一号太仮名
一号に組み合わせる正規の仮名は三号細仮名と同じ字形の書体である。アンチック体に近い使われ方を目指したものか。手書きに振れた字形で,文字固有の形を残し脈絡も生かしており,正方形を意識する築地活版の大型活字のなかでも個性的である。
 
書体見本
         
    ●築地体後期五号仮名
明治30年代中頃に完成した築地活版を代表する優秀仮名書体。日本の明朝体仮名書体はこの後期五号を模倣・改刻することから出発した。完成後百年を経た現在でもこの書体の残像が見られ,その影響力の大きさは突出している。「後期五号」という名称の命名は府川充男氏。
 
書体見本
         
    ●築地体三号太仮名
初号仮名と同じ彫り師か,あるいはその直系の弟子によるものか。書体の性質は近く,初号仮名よりも抑制がきいた字形にまとまっている。この太仮名は三号ゴシック体と混植することも可能である。
 
書体見本
         
    ●築地体三号細仮名
日本人が受け入れやすい毛筆仮名の伝統を取り入れて活字化した書体。文字固有の大きさを残して,流れるような運筆は今見ても美しく,現在のタイプデザイナーには作れない字形である。一号,二号もこの字形の仮名を持つ。
 
書体見本
       
    ●築地体三十五ポイント仮名
35ポイントは新聞活字の5.5倍。本来の大きさは36ポイントで,それを1ポイント小さい活字表面に鋳込んだもの。
字形は流麗,触れればはじけるような曲線の緊張感はすばらしい。
 
書体見本
       
    ●築地体初号仮名
明治20年には完成していたと思われる金属活字最大のサイズの仮名書体。字形の整理といい,曲線の緊張感といい,これ以降出現した大型の金属活字・写植書体・デジタルフォントのどの特太明朝体もこの書体を凌駕できない。堂々たる存在感を持つ優秀書体。
 
書体見本
       
    ●築地体前期五号仮名
明治6年あるいは7年に完成したと思われる築地活版初期を代表する仮名書体。この仮名書体に先行する模索期の仮名が持っていた文字の大小のばらつき,正方形への未定着を整理し,日本の仮名書体の方向性を決めた。「前期五号」という名称は府川充男氏の命名。
 
書体見本
       
       
       
    ●ディドーポイント
フランス人フランソア・ディドー(Francois Ambrois Didot)によって1770年ごろ確立されたポイント制。問題となっていたフールニエポイントの精度を改良し,フランス常用のフート尺ピエ・デュ・ロアの12分の1インチを6ポイントとした。1インチは72ポイント,1ポイントは0.3759ミリである。
 
       
       
         
    ●当用漢字字体表
当用漢字1,850字について字体の標準を定めたもので,昭和24(1949)年4月28日の内閣告示第1号・同訓令第1号で公布。〔使用上の注意事項〕の第1項は「この表の字体は,活字字体のもとになる形であるから,これを,みんちょう体,ゴシック体その他に適用するものとする」とあり,活字設計が大きな制約を受けることになった。「字体表」は小さいサイズのペン書きで,細部の統一も不十分のうえ印刷も悪く,活字業界・新聞社に混乱をまきおこした。
   
       
       
       
    ●南海堂
南海堂は書家湯川梧窓の号。湯川梧窓揮毫の南海堂行書・草書・隷書は青山進行堂活版製造所から販売。南海堂行書は明治28年頃から岡島活版製造所が制作していたが,明治36年に青山進行堂がこの行書を継承し,つづいて南海堂の揮毫による草書と隷書を販売した。
   
       
       
       
    ●ネッキ
活字・印刷関係者は nick をこういう。活字の腹につけた円形の溝。文選工はこれを頼りに活字の向きを揃える。
   
       
    ひ    
         
    ●晩稼流
明治34年,京橋の国光社が制作販売した教科書用活字書体。揮毫は明治の有名書家吉田晩稼でその名前を使ったのであろう。府川充男氏によれば靖国神社の大石標や陸軍省など官庁の門標や大阪天王寺の本木昌造記念碑を揮毫。残念ながら手元の資料が見つからず図版として提示できない。
   
       
    ひ    
         
    ●平野富二
本木昌造のあとを継いで活版印刷と活字製作を軌道に乗せた。築地活版の隆盛は平野富二の才覚による。また造船にも力を入れ平野造船所を作る。石川島造船所はその後裔である。
   
       
    ひ    
       
    ●府川充男
タイポグラファ・近代日本活字印刷史研究家。著書・共著に『組版原論』『漢字問題と文字コード』『本と活字の歴史事典』『日本の近代活字』などの他に印刷史,組版,漢字字体史関係の論攷多数。2004年12月『難読語辞典』を太田出版より刊行。2005年3月に長年の書体史研究の集大成とも言うべき3000頁におよぶ大著『聚珍録』を三省堂より刊行する。印刷史研究会会員,日本規格協会電子文書処理システム標準化調査委員会WG2委員。
   
       
    ●父型
金属活字の原型である凸刻された種字(たねじ)。ヨーロッパではグーテンベルク以降種字は軟鉄に凸刻し,そののち焼きを入れて強度を増して,銅製の母型材に打ち込んで凹型の母型を作る。これ がパンチドマトリックス(打ち込み母型)。この母型を活字鋳造用鋳型にはめたのち活字合金を流し込んで活字を作る。日本ではウイリアム・ギャンブルに よってもたらされた凸刻の木彫種字を使い電胎法で母型を作り鋳造するのが主体だが,明治9年完成の弘道軒清朝体はヨーロッパ式の鋼鉄への凸刻種字によっ て制作されたように,パンチ父型を使う場合もある。
   
       
    ●フランス王立印刷所
ルイ13世治下の1640年,国王の栄光,宗教の発展,文学の進歩に役立つ出版物を刊行する目的で,宰相リシュリューによってルーブル宮に設立された。19世紀の激動の時代,名称を次々に変えながら生き残り,現在のフランス国立印刷局につながる。

1804年 - 1815年 帝立印刷所
1815年 - 1848年 王立印刷所
1848年     政府印刷所
1848年 - 1852年 国立印刷所
1852年 - 1870年 帝立印刷所
1870年以降   国立印刷局

1804年はナポレオンの皇帝即位の年,15年はワーテルローでの敗北とセント・ヘレナへの流刑,ルイ18世のブルボン朝復活,48年の二月革命でルイ・フィリップ退位と第二共和制成立とルイ・ナポレオン大統領選出,52年ルイ・ナポレオン国民投票で帝位に就きナポレオン3世となる。70年プロシアと戦いセダンで捕虜になり,フランスの帝政が終る。帝立,王立印刷所の所有する外国語書体の豊富さは有名で,多くの活字見本帳を出版している。見本帳の末尾には活字彫刻者の氏名と彫刻年を明記。
   
         
  へ    
         
    ●偏旁冠脚
漢字構成部分の名称。偏(へん)は左右構成の左の部分で,「彳偏」「糸偏」など。旁(つくり)は左右構成の右側の字形。冠(かんむり)は上下構成の上にくるもので,「宀冠」「雨冠」など。脚(あし)は上下構成の下の字形で, 「思」の「心」など。
   
       
    ●ヘボン
ヘボン,漢字では「平文」と書く。アメリカ長老教会宣教師で眼科医,本名は James Curtis Hepburn(1815-1911)。1859年来日,はじめ神奈川宿の成仏寺に住み,近くの宗興寺を施療所とし,後に横浜居留地に移る。岸田吟香を助手として『和英語林集成』を編集し,上海の美華書館で印刷。初版1,200部という。版権を2,000ドルで丸善に譲り,その金額を明治学院に寄付しヘボン館が建てられる。初代明治学院大学総理。ヘボン式ローマ字の生みの親。1911年9月21日午前5時ニュージャージー州イーストオレンジの自宅で死去。同日早朝ヘボン館は火災により炎に包まれた。
   
       
    ●ヘボン式ローマ字
『和英語林集成』初版の見出し語を綴るためのローマ字表記がもとになり,のちに整備された。
初版の主な綴りは,

sa shi sz se so
ta chi tsz te to
wa i u ye wo
za ji dz ze zo
da ji dz de do

今日「円」を「yen」と表記するのはこのときの名残である。ヘボンは『和英語林集成』第二版でsz,tsz,dzをsu,tsu,dzuと改める。
明治18(1885)年「羅馬字会」はヘボン式ローマ字綴りを採用し整理した。『和英語林集成』第三版はこの修正に従っている。

a i u e o
ka ki ku ke ko kya kyu kyo
sa shi su se so sha shu sho
ta chi tsu te to cha chu cho
na ni nu ne no nya nyu nyo
ha hi fu he ho hya hyu hyo
ma mi mu me mo mya myu myo
ya i yu e yo
ra ri ru re ro rya ryu ryo
wa i u e o
ga gi gu ge go gya gyu gyo
za ji zu ze zo ja ju jo
da ji zu de do ja ju jo
ba bi bu be bo bya byu byo
pa pi pu pe po pya pyu pyo

ヘボン式表記に反対しているのは科学者でローマ字論者田中舘愛橘〈たなかだてあいきつ〉等で,その主張は日本式ローマ字綴りである。ヘボン式と異なるところはつぎのとうり。

sa si su se so sya syu syo
ta ti tu te to tya tyu tyo
ha hi hu he ho
ya (yi) yu (ye) yo
wa wi (wu) we wo
da di du de do dya dyu dyo

昭和12(1937)年9月21日内閣訓令第三号によるローマ字綴りでは,

ya i yu e yo
da zi zu de do zya zyu zyo(za行の濁音も同じ)

と変わる。

   
       
    ●変体仮名
『広辞林』では「普通の平がなとちがう字体のかな。漢字の草体から出て徹底した単純化に至る過程にある仮名」とある。現在見ているようなひらがなの字形になる前の段階の姿。JISの規格にはなくPCでは打ち出せない。
   
         
  み    
         
●墨海書館
ロンドン伝道会が1843年に上海に作った印刷所。多くの漢訳聖書や伝道用小冊子,漢訳の自然科学関係の書籍を刊行。最初上海県城小北門外にあり,1861年に福州路と山東路が交差する南西角に移転。印刷機の動力に牛を使い上海人の評判を呼んだ。60年前半に上海から撤退。
         
  み    
         
    ●明朝体
印刷・表示用の基本書体。縦線は太く,細い横線にはウロコと称する三角形をつける。毛筆楷書を水平垂直構成にして,点や曲線(ハライ)の形を定型化した書体。明朝体という名称の起源とその名称が初めて使われた年代は不明。『東京日日新聞』明治8(1875)年9月5日号の本木昌造追悼記事には「明朝風」という表現があり,これが最も早い使用例ではないか。日本の文字組版のほとんどはこの書体による。
   
         
  も    
         
    ●木版印刷
活字版にたいして整版または一枚版ともいう。黄楊・桜材などに手書きの版下を裏表逆にして貼り,彫刻刀で陽刻(凸刻)したのち墨をつけ上に紙をおいてバレンで摺る印刷法。書籍や絵画などの印刷に使われる。書籍では一枚の板に見開き2頁(一丁という)を彫刻し印刷し,印刷した一丁づつを袋とじにして綴じる。中国でこの印刷法が本格的になったのは8世紀初めであろう。わが国で木版印刷が見学できるところとして,京都宇治の隣の黄檗駅の近くにある黄檗山万福寺宝蔵院をあげることができる。ここでは今でも重要文化財の指定をうけている鉄眼版一切経の版木六万枚を使って印刷がおこなわれている。
   
       
  ●文字コード
コンピュータ上で取り扱う個々の文字に特定の番号を付け,それら番号付けされた文字集合の体系のこと。文字符号や符号化文字集合とも呼ばれる。いわゆるJISコードやシフトJISコード,Unicodeなどは文字コードの一種。Adobe-Japan1-5なども広義の文字コードであるが,これは文字とは定義の異なる「グリフ」を番号付けした集合の体系,つまり「グリフセット」であり,シフトJISコードやUnicodeなどの文字コードとは区別して取り扱うべきである。また,個々の文字に付けられた番号を指して「文字コード」と呼ぶ人がいるが,これは「コードポイント(符号位置)」と呼ぶべきである。
(この註は大日本スクリーン製造株式会社による)
         
  ろ    
         
    ●蝋型電胎法
ウィリアム・ギャンブルが漢字活字制作のために採用した方法。欧米の方法は軟鉄に文字を逆字で凸刻し,それに熱を加えて硬度をましたのち銅の母型材に打ち込んで凹型の母型を作り,鋳型にはめ込みそこに活字合金を流し込んで活字をつくるが,この方法では画数の複雑な漢字を小さなサイズ上に彫るのが至難の業であった。ギャンブルは印刷所が上海に移転した早々に,活字の種字を金属材への彫刻からから木材への彫刻に切り替えた。この結果複雑な漢字の彫刻が容易になり,完成度も上がり,かつ小型化が可能になった。凸刻された種字をある程度の量組版し,加熱して柔らかくなった蜜蝋・松脂・黒鉛の化合物に押し付け凹型を作る(蝋型という)。これに黒鉛を塗って伝導性をあたえ,ダニエル電池を応用した電槽に漬けて銅を集積して凸型を取る。それを再び電槽に漬けて凹型を作り(シェルShellあるいはガラハGalvanographという),裏に亜鉛を流し込んで強度を高めたうえで銅の母型材にはめこむ。これが電胎母型である。この母型を活字鋳造機の鋳型にはめこみ,溶解した鉛・錫・アンチモンの三元合金を流し込んで活字を作る。蝋型電胎法は,母型の製造がベントン機械彫刻機に取って代わられたあと急速に衰退し,技術の記録もされずまた経験者の死亡消滅などもあって完全に失われてしまったが,昨年(2003年)株式会社モリサワなどの努力で復元に成功した。
   
       
    ●ローマン体
欧文書体の基本書体。古典ローマ文字に範をとった書体で, 縦線が太く線の上下辺には左右に突き出たセリフがつく。15世紀後半に印刷用書体として出現。制作年代と形態から通常はヴェネチアン・オールドローマン・トラディショナル・モダンローマンの4種類に分類される。セントール・ギャラモン・バスカービル・キャスロン・ディドー・ボドニなど名作が多い。
      閉じる