川畑▲ さきほどから“描き文字”という呼称を使っていますが、文字を描くという行為については、この100年近くのあいだにいろんな呼称が創りだされ、使われてきました。
 戦前は、「装飾文字」「図案文字」「意匠文字」「変体文字」「広告文字」「実用文字」「商用文字」「商飾字体」「造り文字」といった呼称が並立して使用されていましたし、戦後も「図案文字」「デザイン文字」「レタリング」といった呼称が併用されていた時期があります。
 調べてみて判ったんですが、一般に「レタリング」の旧称として扱われている「図案文字」は1920年代半ばから使われはじめたもので、どちらかというと関西で多く用いられています。同時代の関東では、「意匠文字」のほうが使用頻度は高い。それ以前は、関東・関西ともに「装飾文字」というのが多いですね。ただ、戦前は戦国時代みたいな様相で、一国一城の主を気取った描き手たちが、自分の好きな呼称を用いていたといったほうが実態に近く、呼称だけで時代や地域を特定できるというほどのものではありません。
 この連載では、時代や地域によって異なる呼称の総称として“描き文字”を使おうということになったんですが、平野さんは“描き文字”という呼称に、特別なこだわりをお持ちのようで(笑)。
平野● あるというかね、まあ自己弁護みたいなもんだけど、書道とは区別して考えたいんだ。書道には、権威というかどこか“脅しの文化”みたいな面があって、教養とか学識とか、そうゆうものを武器にしているところがある。それと浅草の芝居小屋や映画館で育まれた文字とでは、まったく性格が違うから。ぼくの場合は自分のつたなさを、描くという行為に込めるわけだ。だから、ぜったい“道”にはならない、「書道」にはならない。ただ“描く”。
川畑▲ “レタリングの名手”として名を馳せた高橋錦吉[☆註10]さんは、著書『レタリング入門』(大泉書店、1973年)のなかで「書き文字」という表記を用いられています。この本はいわゆるレタリングの教本なんですが、中国南宋の書家・張即之(ちょうそくし)や中村不折らの書を図版紹介していて、書道の流れも視野に入れています。この点で平野さんのような区分けは読み取れませんね。
 ボクは書道に疎いんですが、中村不折の名で思い出したことがあります。昨年、論集でご一緒させていただいた、書学書道史の研究者・鍋島稲子(台東区立書道博物館研究員)さんが、書道と美術の関係について興味深い事実を指摘されているんです[☆註11]
 1882年に、洋画家・小山正太郎の論文「書ハ美術ナラズ」をめぐって岡倉天心との論争があって、書道を美術として認めるかが問題になったそうです。明治中頃にはまだ「書家」という職業は成立しておらず、書を芸術作品として創りだすという意識も希薄だった。それが1920年代以降、書道振興運動や各流派の活動によって現在のような地位を獲得したそうです。ぼくらはむかしから書道に絶大な権威があったと思いがちだけど、それは単なる思い込みで、むしろ美術から脅されていたんですって(笑)。
 だから、平野さんや小宮山さんは、まず「甲賀流」や「博史流」という流派を勝手に立ち上げて、親戚や友だちを弟子にして門派をつくっちゃう。そのうえで些細な意見の違いを主張しあって、多少いがみ合うフリをしつつ、書壇ならぬ描壇という一大勢力があるように見せる。そうすれば、案外“脅しの文化”も簡単に手に入ったりして。文化勲章も夢じゃない(笑)。
小宮山■ ぼくは近頃、「明朝宗大本山小宮山さん鉛活住職」と名乗ってます(笑)。
平野● 不思議なんだよね。小泉首相が筆で郵政民営化なんとかと書くんだけど、すごくうまいんだよ。あの人、能書家だな。ああいう場合は絶対、活字書体は使われないよね。
小宮山■ 中国で一度、政府高官の告別式に参加したことがあるんですが、向こうの政治家は芳名帳に立派な字で堂々と名前を書くんですね。ぼくは人間が小さいから小さくしか書けない。脅しの文化なのかもしれないけど、そういうのは好きですね。
平野● 伊東屋の書道コーナーに書道の本が並んでいるんだけど、あるとき某政治家がそれを一所懸命見てたんだよ。勉強しなくちゃいけないんだろう、あれは。将棋や囲碁の棋士たちはみんなひととおり“型”の勉強をやるでしょう、歌舞伎役者も。これはもう脅しの文化以外のなにものでもない。
☆註10…高橋錦吉(1911〜1980)デザイナー。徳島県生まれ。1930年、神奈川県立工業学校図案科を卒業後、神田・三省堂図案部に入社。三省堂の広報誌『エコー』(1932年創刊)の表紙デザインで注目される。また同誌編集長・尾川多計に感化され、左翼活動にも参加。1940年、三省堂を退社後、日本写真工芸社、国際報道工芸、東方社を経て一九四四年、出征。戦後はフリーのデザイナーとしておもに出版界で活躍、『美術手帖』『本の手帖』『歴程』などの雑誌タイトルが有名。また1950年の日本宣伝美術会(日宣美)の創設世話人や『日本デザイン小史』(ダヴィッド社、1970年)の編集同人、そして辛口の批評で、デザイン界を側面から支え続けた功績も見逃せない。主著に『図案の基礎』(美術出版社、1957年)、『図案文字の描き方』(美術出版社、1958年)、『デザイン文字 かき方とスタイル集』(別冊アトリエ59号、アトリエ出版社、1960年)、『レタリング入門』(大泉書店、1973年)などがある。

☆註11…鍋島稲子「逸脱と回帰の弁証法――中村不折通して見た1930年代の書壇」、五十殿利治・河田明久編『クラシックモダン――1930年代日本の芸術』せりか書房、2004年。
     
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