小宮山■ 普通に考えれば、書も西洋のカリグラフィも修正のきかない一発勝負ですよね。なぞらない。それに対してレタリングは、組み立てながら描いていくという方法をとります。この差は大きい。書の場合は一発で書くわけだから、精神性は問われてきますよね、実際にあるかどうかはわかりませんけど。じゃあ、提灯の文字に精神性があるかというと、ないだろう、という判定はつくんじゃないかな。いやこの道一筋という精神性はでているか……。
川畑▲ 下村の論にでてくる江戸時代の提灯屋、傘屋の文字は実際になぞっていたんでしょ? アウトラインを描いて、なぞりながらかたちを整えて、そのなかを塗っていく。ということは“精神性がある/ない”という問題以上に、「書く/描く」の感覚からすれば、本当に描いているんですよ。日本語表記として正しいかどうかは別として、下村の解釈にはかなり説得力がありますよね。教養や財力に屈したというより、描き文字の現場の感覚に近いという意味で(笑)。
 だから平野さんが「描く」にこだわるのは、無意識のうちに現場の臨場感をすごく反映させているんだと思いますよ。
平野● 習字の授業でなぞったりして、よく先生にたたかれたりした。
小宮山■ 実際は書家もなぞってますけどね(笑)。細かいところ。
平野● なぞらないと白と黒の関係なんてできないだろうしね。
川畑▲ 小宮山さんは、佐藤敬之輔さんのところへ入られる前は書家を目指されてたんですよね。
小宮山■ うん、ぼくは書家になりたかった。
川畑▲ 書家の感覚で文字を書いているときと、現在のように印刷されることを前提にした文字を描いているときでは、かなり意識は違うんですか?
小宮山■ いま考えると、そんなに変わっていないね。さっき書の精神性みたいなことをいったけど、あれはかなり怪しい。実際に原寸か縮小かという差はありますけど、やっていることはそれほど変わらないような気もする。やはり、それなりに日本の文字を考えていくという点で、書もレタリングも同じ世界というふうに考えています。ただ、初めて佐藤の『英字デザイン』を読んだとき、書体デザインがきわめて論理的なことに、少なからず驚きましたね。それまでの書の世界とはまったく違いましたから。
川畑▲ 平野さんの場合はどうなんですか? たとえば装幀の場合、著者の存在をどこまで意識するのか……そのあたりはどうなんですか?
平野● 実はね、女性の著者から頼まれることが少ないんだよ。女性が敬遠する、イヤがる。描き文字って似顔絵になっちゃうんですよ。よくいうことなんだけど、人の名前を描くと、その人のイヤなところなどがでてきちゃう。カリカチュアライズされて、強烈にでてしまう。それをみんな感じてるのね、すごい世界ですよ。
小宮山■ すごいですねえ、あだやおろそかに考えてはいけない。
平野● なるべく著者名は描かない。著者のなかでも、自分を変身させてどんどん書いていく椎名誠さんとかは別だけど。
小宮山■ 平野さんがお描きになるとき、著者の人格まで想定しています?
平野● してますね、かなり。くだらんやつの方がうまく描ける、椎名誠さんは別よ(笑)。たいていイイ人はうまく描けない、漫画的な要素が少ないから。描き文字は似顔絵や風刺漫画と同じで、どうしても批評になっちゃうのよ。だから政治家の名前なんか描くとおもしろいだろうね。
小宮山■ そこはやはり書道とは違いますね。
平野● だから、普遍的だなんて全然思っていない。
川畑▲ 平野さんは自分の手から出た曲線を信じないとお聞きしましたが……。
平野● 信じませんよ(笑)。
川畑▲ そこが決定的に違いますよね。書家の書は自己の表現で、自らの精神をさらけだす行為ですよね。平野さんは「自分のつたなさを、描くという行為に込める」なんていいつつ、実は自分自身の痕跡を残すのがイヤなんでしょ?
平野● すごくイヤですね。だからベジエ曲線というのがぴったり合っている。
川畑▲ もともと筆で描いていたのに、なぜコンピュータを使うようになったんですか? 平野さんは比較的はやい時期に切り替えましたよね。
平野● ホワイトで修正する手間を省けるからね(笑)。それに雲形定規を使って描いていたんだからさ、雲形定規の曲線はベジエ。それを簡単にできるというので、コンピュータに移行したの。
小宮山■ ホワイトを使うと、直してもまた失敗するから。写植書体では、昔のリョービ書体の曲線はほとんど雲形定規を使って描いた珍しい例で、すこし線がかたいね。モリサワと写研はフリーハンドじゃないかな。
平野● コンピュータのアプリケーションのなかに、長方形のツールがあるでしょ、最近はあれでやるのが一番好きですね。それがじつに愉快でね、ざまあみろって感じ(笑)。
川畑▲ それは書道と決定的に違う(笑)。

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