☆註1…佐藤敬之輔(1912〜1969) 文字デザイン研究者・書体デザイナー。横浜・神奈川の魚問屋「八の字」の三男として生まれる。東京帝国大学理学部動物学科中退後、京都の陶芸師・伊東陶山に弟子入りして陶芸を学ぶ。1940年、スタンダード・バキュームの技師に転じ、後に旭石油株式会社(現・昭和シェル石油株式会社)に入社して、グリースの研究・生産に励む。1950年、占領米軍の印刷工場に入所して欧文活字書体に接する。CIE図書館で米国の書体デザイナー、フレデリック・ゴウディーの『A Half Century of Type Design and Typography 1895-1945』と出合い、本格的に活字書体研究と取り組む。1954年、初の著書『英字デザイン』(丸善)で、欧米の書体分類を導入した欧文レタリングを紹介。以後、統計・数量的分析法による文字デザインの理論と実践の両面で活躍。おもな書体デザインに「津田三省堂長体明朝」(1961年)、沖電気コンピュータディスプレイ書体(18×18点、1968年)、「機械彫刻用標準書体(当用漢字)」(1969年)、「リョービRM-1000細明朝体」(1979年)などがある。また武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)や桑沢デザイン研究所の非常勤講師として後進の育成に務めたほか、日本レタリングデザイナー協会(現・NPO 法人日本タイポグラフィ協会)の創設にも尽力した。主著に『英字スタイル』(ダヴィッド社、1956年)、『日本字デザイン』(丸善、1959年)、『英字システム』(ダヴィッド社、1963年)、「文字のデザインシリーズ」全6巻(丸善、1964〜76年/第1巻は未刊)、文字のデザインテキスト『日本字デザイン』全2巻(丸善、1970〜71年)、『日本のタイポグラフィ 活字・写植の技術と理論』(紀伊国屋書店、1972年)がある。

☆註2… 金属活字の組版の際に、印刷されない部分を埋めるクワタやインテルなどの総称(blind material)。

  川畑▲ 1980年代半ばに、日本タイポグラフィ協会が ITC のタイプディレクターを呼んで講演会を催したことがあるんです。内容は、これからデザイナーにとってパーソナル・コンピュータが重要な役割を果たすようになるという、現在の状況を予見したものだったんですが、そのとき印象的だったのは、それを聞いていた会場のオジサンたちがせせら笑っていたことなんです。そんなものがなくたって、オレたちはタイポグラファーとして十分やってるよって感じで。実際、講演を聞いていても、ビットマップとアウトラインの連関が難解でわからなかった。ギザギザがあるのにきれいに印刷できますといわれたって、「はい、そうですか」と鵜呑みにできる状況ではなかった。事実、当時はまだ DTP の草創期で、数年後にマッキントッシュを買ったら、「我々のコンピュータは自転車で運べます、すごいでしょ」というプロモーション・ビデオが同梱されてましたからね(笑)。
 でも、ITC のタイプディレクターが予見したように、実際にパーソナル・コンピュータが普及すると、デザイナーの裁量権は飛躍的に広がった。ただその一方で、それまで写植オペレーターが熟練の技や経験則で解決してくれていた組版上の問題を、デザイナーがひとつひとつ解決しなければならなくなった。そうした現実と向き合うようになって、初めてデザイナーが組版上の諸問題を真剣に考えるようになったんじゃないでしょうか。
平野● コンピュータと自転車というのは非常に象徴的だよね。往年の左翼のビラ撒きって、謄写版を自転車の荷台にくくりつけて都内を走り回っていたんだよな。いろんなところでカリカリ書いてさ、バーッと刷って、撒いて、逃げていく。それと同じよ(笑)。謄写版はビットマップだしさ。
小宮山■ えらくむずかしくなってきたなあ(笑)。
ぼくは“印刷表示用の文字=タイプフェイス”をつくっている書体デザイナーなので、先ほどから挙がっているデザイナーやタイポグラファーとはちょっと立場が異なりますね。書体デザイナーとしても“描き文字”という用語を使ったことはなくて、自分では“レタリング”といっています。日本タイポグラフィ協会はもともと日本レタリングデザイナー協会(1964年結成)という名称だったんですが、あるときそれをいまの名称に変えたんです。
平野● いつごろのこと?
川畑▲ 1971年。
小宮山■ 亡師の佐藤敬之輔[☆註1]が存命でした。そのころ、タイポグラフィという言葉には、ものすごく新鮮な響きがありましたね。図案文字からレタリングへと切り替わったときと同じような、時代のすう勢みたいなものがあったと思うんです。だけど敬之輔は晩年、「あれは失敗だった、レタリングデザイナー協会のままでよかった、タイポグラフィではない」といういい方をしていました。ぼくもそう思います。
 タイポグラフィってどういうものかといわれると、ぼく自身もはっきり定義できませんが、ひろく捉えれば、デザインの総称みたいなかたちで解釈することもできるのではないでしょうか。たとえば、雑誌一冊を見たとき、そこにはイラストレーションがある、写真も、文字もある、それはグラフィック・デザインであり、エディトリアル・デザインでもある。だけど、そこに不可欠な文字の存在を重視すれば、タイポグラフィあるいはタイポグラフィック・デザインともいえるんじゃないか…近頃はそう考えるようになりましたね。
平野● タイポグラフィックの「ック」というのはね、タイポグラフィのようなデザインということでしょう?
小宮山■ タイポグラフィを文字組みの問題だけに限定してしまうのは間違っていると思いますよ。文字もあれば図像もある。それらをまとめてデザインすること、それがタイポグラフィあるいはタイポグラフィック・デザインではないかというのが、ぼくの解釈ですね。
 ただタイポグラフィという用語の定義というか概念が、みんな少しずつ違うのも事実です。欧文組版を思い浮かべる人もいれば、和文組版を思い浮かべる人、ロゴタイプのデザインや書体デザインを思い浮かべる人もいる。本来なら、きちんとした定義があって、それをもとに論を進めるべきなんですが、あまりにいろいろな問題がありすぎて、よくわからなくなっているのが実態でしょうね。
平野● ぼくの学生時代なんか、欧文は別として、タイポグラフィといえば、正方形の邦文活字を規則的に並べて行く作業、活字と込め物[☆註2]だけでデザインするというふうに受け取っていたんです。そういう教育を受けた世代から見れば、描き文字を使うとか、字間を詰めるなどということはもってのほか、邪道だと受け止められるでしょうね
     
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