川畑▲ 最近読んだ文章のなかに、気になる一節がありました。「虎を語る者は獅子を語らず。獅子を語る者亦猫を言はず」というものなんですが、タイポグラフィやデザインの現状を、みごとにいいあてているんじゃないか……そんな気がしました。つまり「タイポグラフィを語る者はデザインを語らず。デザインを語る者亦“描き文字”を言はず」ではないかと(笑)。
 振り返ってみると、この10年のあいだにタイポグラフィに関する歴史研究は飛躍的に進展しました。今回、ゲストとしてお越しいただいた小宮山博史さん、そして府川充男さん、片塩二朗さんといった学究諸氏の精力的な活動に負うものです。これはもう画期的な出来事で、事実上、休眠状態のデザイン史とは雲泥の差です。ただただ、うらやましいかぎり。
 とかいいながら、ひとつだけ率直な感想をいわせてもらえば、あまりにも枠組みにとらわれすぎているんじゃないか……という気もします。たとえば書物について考える場合、タイポグラフィ史が範疇とする活字書体や組版の変遷は、きわめて重要な問題なんですが、同じく書物の一端を担ってきた装幀の問題全般までは網羅できない。新聞においても同様で、組版は語れても、同じ紙面上にある広告の問題までは網羅できない。つまり、タイポグラフィ史だけでは書物や新聞という全体像はつかめないし、それが登場した時代背景や社会状況もみえてこない。このまま枠組みにとらわれ続けると、こじんまり“タイポグラフィのためのタイポグラフィ史研究”に終わってしまうんじゃないか、もっと装幀や広告といった他の分野にまで越境していくべきじゃないか……そんな懸念も同時に感じていました。
 そんなことを漠然と考えるなかで、ずっと引っかかっていたのが“描き文字”でした。継子状態というか、描き文字は同じ紙面に印刷された文字にも関わらず、活字ではないという理由でタイポグラフィ史からは無視され、デザイン史からも書体の問題だからタイポグラフィ史の一部だろうと目されてきた。しかも別名「変体文字」! 流れるような優美な文字でもハナから変体呼ばわりなんです(笑)。なぜか判らないけど、描き文字はながいあいだ蔑視されてきた。はっきりいえば、ゲテモノ扱い(笑)。
だけど、描き文字が登場する必然性や需要は実際にあった。「異能」という言葉があるけど、まさにそれで、描き文字は活字とは目的も、用途も、能力も異なる文字。もちろん量的な面だけをみれば、活字と描き文字とでは「虎」と「猫」……いや、それ以上の開きがあるんですが、だれも触れようとしないというのは、ちょっとおかしな状況ですよね。
 印刷文化のなかで、“描き文字”がどんな使命を背負わされ、どんな役割を果たしてきたのか。また今日のデジタル環境にどのように受け継がれるべきか、あるいは反面教師としてどう捉えるべきなのか……。いろんな領域を横断しながら、“描き文字”を考えることで、タイポグラフィやデザインの問題を見つめ直してみよう――大袈裟にいえば、この連載がそんな問題提起の場になればいいんじゃないでしょうか。
平野● なるほどね。だけど、ぼくは一度も「変体文字」なんて思ったことはないよ(一同笑)。それに描き文字とタイポグラフィを明確に分離して捉えることには、一抹の寂しさがあるよね。ぼくのなかでは、両者の区別というか差別はまったくなくて、デザイナーとしてはどちらも使う。活字や写植を使うときも、描き文字的なレイアウト――つまり文字の意味や形に対して、思い入れの強いデザインを実践しているから。
川畑▲ ただ現実問題として、この10年でタイポグラフィの領域とか、組版上のルールについてすごく厳格にいわれだしたのは事実ですよね。その結果として、タイポグラフィに関する論考から“描き文字”が閉めだされてきたことも否定できない。たとえば週刊誌の各記事の見出しにしても、長い間、描き文字が使われていたんですが、デジタル時代になったらその系譜がプツリと切れて、コンピュータのなかにある書体だけでどんどんレイアウトされるようになった。本当にそれでよかったのかという点は、ひっかかりますよね。
平野● どうも文字とか組版とかいう問題についてさ、みんながコンピュータを使うようになってから、声高に叫びだしたきらいがある。もしもコンピュータがなければ、こんなことにはならなかったような気もするね。
     
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