☆註5…1872(明治5)年2月21日に創刊された『東京日日新聞』(現・毎日新聞)は、創刊時から金属活字による印刷を実践した新聞である。創刊時は上海から活字を購入した蛭子屋が印刷を担当、つづいて勧工寮活字、そして平野活版(後の東京築地活版製造所)の明朝体を用いたが、1881(明治14)年8月1日(第2892号)から本文活字を楷書体活字に切り替えた。この楷書体活字は1875(明治8)年、神崎正誼の弘道軒が制作したもので「弘道軒清朝体」と呼ばれている。
『東京日日新聞』が本文活字を明朝体から弘道軒清朝体に切り替えた理由は定かではないが、『毎日新聞百年史』技術篇を執筆した古川恒によれば、弘道軒清朝体活字の種字を揮毫した小室樵山に築地活版製造所が揮毫を依頼したことで、弘道軒と築地活版の間に争いが起きるが、弘道軒清朝体を『東京日日新聞』の本文に採用することで決着させたという。その築地活版に楷書体の開発を依頼したのが、『東京日日新聞』だったのではないかと推察している。同紙は、1890(明治23)年2月11日付第5488号まで弘道軒清朝体を用いた。
  川畑▲ ボクの場合は同じ印刷された文字なのに、なぜ無視するの? という疑念の方が強いかな。だからこの問題に興味を持っているんですけど。挑発的にいえば、どっちが本筋なのかというところもある(笑)。
平野● それはまたすごいね(笑)。ぼくなんかタイトルは描き文字で描くけど、著者名とか出版社名とかは活字書体で組むわけ。描くのイヤだから(笑)。
川畑▲ イヤな理由は?
平野● うるさい著者や編集者が多いから。そういうふうに現場レベルでは混在するわけよ、描き文字と活字というのは。
川畑▲ 実際、表裏一体の関係だと思うんです。どちらかだけで成立するメディアっていうのは、ものすごく少ないんじゃないかな。新聞というメディアを考えたときに、書かれた内容・情報だけが重要だったら、全部テキストデータにしても問題はないわけです。だけど実際はそうではないですよね、新聞の魅力っていうのは。ありとあらゆるものが混在していて、初めてメディアとして成立しているわけだから。
 平野さんが紹介された往年の「三八」には、ゾクゾクするほど魅力的なものがありますよね。だけど新聞紙面全体を、そのルールで拘束してもいいかといえば、やはり疑問ですよね。そんなことしたら、新聞の魅力は半減するでしょうしね。
小宮山■ 描き文字という言葉をつかえば、最近それに近いフォントがたくさん出てきていますよね。「変体文字」とは呼ばないけど、大半は描き文字をフォント化したようなものです。一方に明朝体があり、一方に描き文字の現代版というべきディスプレイ・フォントが共存している……というふうに考えているけど。
川畑▲ 描き文字がディスプレイ・フォントと同じか、という問題は後で取り上げるとして、いまの小宮山さんの発言にもあったように、日本語の場合、基本書体としての明朝体の存在がきわめて大きいんです。ただしそれを突き詰めていくと、なんだかキナ臭い感じがしてくるんです。ヒトラーの民族主義的な書体規制みたいで。明朝体至上主義みたいな価値観がもっている危うさもあるんじゃないかと……。
 タイポグラフィの分野で、ここ10年の一番大きな流れは、やはり本木昌造(1824〜1875)を伝説で終わらせないで、その業績と遺産をきちんと評価しましょうということだったと思います。明朝体の再評価ですよね、歴史的な調査だけでなく、デジタル・フォントへの飜刻・覆刻も含めて。これはこれですごく意味のある取り組みだと思いますけど、そこで終わっていいのかという面もありますよね。
小宮山■ 傍流の研究ですね。明朝体の研究は進んだけど、ゴシック体は? 楷書体は? といったらほとんどないに等しい。確かに明朝体至上主義みたいのが、どっかにあるのかもしれない。おそらくそれは明朝体が基本書体だという思いというか現実があるからで、そこからやっていこうということだったと思いますよ。
 1880年代、『東京日々新聞』[☆註5★図2]が10年間ほど本文を楷書体(弘道軒清朝体)で組んだ時期があります。その研究だって、うまくすれば、なぜ明朝体に戻ったかということまで究明できると思うんですが、そこはまだ手つかずのまま。
平野● 中国だって明朝体を使っていないしね。
小宮山■ 宋朝体ですね、教科書は宋朝体と楷書体ですからね。
平野● 結局、“日本人は明朝体が好きだ”としかいえない。
小宮山■ 中国人は明朝体を嫌いだといいますね、あれは字じゃないって。逆に日本人から見れば、宋朝体を横に組むことに抵抗があるけれど、それは平気なんですって。
 さっきの話、狭く狭く解釈しているという問題に戻りますが、字間の問題を例にとれば、金属活字の場合だったら狭くしようにもできない。金属製のボディという物体があるわけですから、拡げていく以外に途がない。写植になると、詰めるという作業が可能になった分だけ選択肢は広がった。それでも、レンズの大きさが決まっているから細かくはできない。ところがデジタルになったら、制約から解放されて好きにできるようになったというのが実態でしょう。
     
★図2…弘道軒清朝体で組まれた『東京日日新聞』(1887年)
 
     
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