タイポグラフィの世界  
   
 
 
小宮山博史
 
 
  →PDF版 (612 KB) ※各書体別のリンクはこの頁の下にあります。

 
    今回は今までとはすこし趣きを変えて『日本の活字書体名作精選』にまつわる話題をお話ししたいと思います。
 覆刻を担当した者にとって、それらの書体が多くの方々に好意をもって迎えられ、デザインや編集の現場でたえず使っていただけることがもっとも嬉しいことなのです。活字や写植の時代そして今のデジタルフォントの時代を通して多くの書体が覆刻され、改刻され、あるいは新刻されてきましたが、制作者の想いとは裏腹に後々まで命長らえる書体というものは全体のほんの一部にすぎません。また発表時はもてはやされながらいつのまにか記憶の外に追いやられ、忘れ去られた書体も目に付きます。しかし一度でも表舞台に立てたらむしろ僥倖で、残念ながら書体の多くは一度も陽の目を見ることなく消えていく運命のように思われてなりません。

   





    ●覆刻には書体文化の再確認と先人達への敬意がなくてはならない

本業がタイプデザインであって、日本の活字書体史を少しばかりかじった者としては、長い時間文字印刷を支えてきた金属活字の中から、今は消え去ってしまった書体をもう一度評価しなおし、現在のタイポグラフィの現場に再投入できるものはできるだけ誠意を持って改刻・覆刻を進めるべきではないかと考えています。日本のタイポグラフィをより豊かにすることが可能になるのは言うまでもありませんが、それ以外に私にはこれがもっとも重要だと思うのですが、日本の精神・文化・技術を支え続けている活字書体の改良に生涯をかけ、苦労された無名・無冠の先人種字彫刻師達を記録し、後世に伝えることができるのではないかということなのです。
 「書体は水や空気のようであれ」とよく言われます。基本書体である明朝体を念頭に置いた表現ですが、水や空気のように透明無色な書体がはたして存在するでしょうか。試しに簡単な文章をお手元のすべての明朝体で組み分けてみたらいかがでしょうか。まさに百花撩乱という言葉がぴったりです。「書は人なり」は毛筆書だけをさすのではなく、活字書体もまさにそのとおりなのです。コンセプトに合わせて字形を構成したとしても、細かい部分の処理や解釈にデザイナーの個性がよく表現されていることがわかります。文章内容に合わせた書体の選択がタイポグラフィの基本であるのなら、手持ちの駒はできるだけ多いほうが良いのは言うまでもありません。それも具眼の士の批判に耐えられる高い品質の書体が数多く欲しいことになります。本来は漢字仮名の一書体の覆刻が理想なのですが、仮名セットだけのリリースにしたのは、漢字制作にかかる時間は膨大で早期の提供が見込めないこと、日本文における50パーセントを超える仮名使用量は、仮名を替えるだけで文章組版の雰囲気が大きく変化すること、そしてあまり知られていないことですが、金属活字史からみて漢字仮名が同一人物によって制作された例は案外少ないようです。漢字はこの彫り師、仮名はあの彫り師というように分業によっていました。ですから漢字と仮名の書風は異なって当たり前でした。またこれは極端な例ですが何種類かの仮名を混植して平気でした。太さ・大きさ・書風が違っていても意に介さないのでしょうかね。ちょっと驚きます。今はあたりまえのことと思っていますが、漢字と仮名を同一デザイナーがデザインするというのが一般的になったのは、写植の時代になってからではないでしょうか。
 『日本の活字書体名作精選』はそのようなことを念頭に置いて選択された9書体で構成されています。この中には金属活字としてかろうじて命をながらえているもの、写植書体としてすでに覆刻されているもの、現在も新聞見出し用書体として使われているもの、またはその書体を原型として改刻・改変を施しているものなどがありますが、今回の覆刻ではまずその書体のオリジナル(時代がたつと少しづつ字形が変化します)と思われる活字見本帳を探し、それを元に原字を復元しています。ですから現行の他社当該書体と少し違った字形をとることもあります。
 この9書体については今までの連載の中にも記事として登場していますが、書体を選択するときにその書体の出自と特長について制作者側の知見も参考になると思われますので、重複を恐れず書いてみます。お付き合いください。

   
   















    筆者追記

この連載には、デザイナーの向井裕一さんが覆刻9書体を使って組み分けた美しいPDF版が添付されています。ぜひダウンロードしてご覧いただき、組見本として活用していただけたら幸いです。
 繰り返しになりますが、タイポグラファの仕事は文章の目的に合わせて書体を選択し、それを読みやすく組むことに尽きます。文章の内容・目的によって、文字サイズ・ウエイト・字間の設定・行間の設定・一行字詰め・行数は変化し、どれ一つとして同じ組みはないと思います。それらを適切に選択し文章を組版ソフトで流し込んで組んだとしてもそれで終わりではなく、その次には行頭・行末、行・段落などへの細かい調整が必要になります。文中にラテンアルファベットが入る場合もありますし、割注を組む、あるいはルビを振る場合もあります。それらを細心の注意をはらって調整した結果が皆様が目にしている本や雑誌なのです。しかし、本や雑誌の内容に満足したとしても、それを組んだタイポグラファに思いを寄せることはほとんどありません。タイポグラファはその辛さに耐えるほかないのです。認められなくてもできるだけ良い組版を目指すのは、読者にたいするタイポグラファの良心にほかなりません。
 PDF版をご覧になりどのような調整がなされているかを考えていただけたら嬉しく存じます。そしてもし可能ならば書体や組版について皆様のご意見をいただきたいのです。
 印刷表示用の書体は、作り手・使い手・読者の三者の共同作業によってしか品質を高めることができないのです。

     
    築地体初号仮名
築地体三十五ポイント仮名
築地体一号太仮名
築地体三号細仮名
築地体三号太仮名
築地体前期五号仮名
築地体後期五号仮名
築地活文舎五号仮名
江川活版三号行書仮名

   

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