タイポグラフィの世界  
   
 
 
小宮山博史
 
 
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    王の背番号は昔は1番、今は89番という答えが返ってくると思いますが、実は96番です。その理由は後ほど書くことにします。
 陰暦9月20日バタビア(今のジャカルタです)への出航を前に、荷物を満載して出島沖に停泊するオランダ船コルネリウス・ハウトマン号は、文政11年8月9日(1828年9月17日)夜に長崎を襲った暴風雨により漂流、対岸の稲佐浜に乗り上げてしまいました。修理のために積荷を下ろしたとき、乗船予定の乗客の積荷のなかから国外持ち出し厳禁の日本地図などが発見されました。これが日本の蘭学界を震撼させたシーボルト事件の発端です。

   





  出島蘭館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツバイエルンのウュルツブルグの生まれ(1796年)ですからオランダ人ではありません。ですから本来は日本に入ることはできないのですが、シーボルトはオランダのハーグでオランダ領東インド陸軍病院外科少佐に任命されていますのでオランダ人として入国したわけです。まずジャワに赴任しましたが、すぐに日本へ行くよう命じられて1823年6月28日バタビアを出帆、8月11日、日本では文政6年7月6日、出島に上陸しました。
 ちょっと寄り道です。あるとき日本人の阿蘭陀通詞がシーボルトのオランダ語の発音に疑問を持ち、先生のオランダ語はドイツ語の訛りがあると言います。
 驚いたシーボルトはとっさに私のオランダ語は山オランダ語ですと答え、危なく切り抜けました。オランダには山はありませんが、行ったことのない阿蘭陀通詞はそれを知らなかったわけです。しかし通詞の語学力は恐ろしいほどです。
 幕府の許可を得てシーボルトは、出島から北東の鳴滝川に沿ってのぼった地に治療と講義をするための塾を開きます。鳴滝塾です(今はシーボルト記念館になっています。市電新中川下車)。多くの日本人医師がここで学び、先進医学を修めた優れた蘭方医として育っていきました。悲劇的な最後を選んだ高野長英もここで学んだはずです。
 また寄り道ですみません。シーボルトとお滝との間に生まれたのがイネで、後に日本最初の女医となりました。シーボルトはお滝のことを「オタクサ Otaksa」と呼んでいましたが、その名を日本原産の美しい花の学名にしています。「紫陽花(あじさい)」がそれです。
 出島での約1年の軟禁ののち国外退去処分をうけ、文政12年12月5日(1829年12月30日)早朝、収集した膨大な資料とともにコルネリウス・ハウトマン号で長崎を離れました。シーボルトが娘イネを託した門人二宮敬作、高良齊はお滝とイネを小さな漁船に乗せて見送ったといいます。イネ2歳8ヵ月。

   
   















  バタビアを経由して母国のフリッシンゲ港に到着したのが1830年7月7日、日本では天保元年6月10日です。シーボルトと同行の中国人郭成章はここから川をのぼってベルギーのアントワープのホテルに投宿しました。7月17日夕方、売り出し中の若いオペラ歌手はこのホテルでいろいろな言語を駆使して旅行談に花を咲かせているシーボルトを見ます。板沢武雄は『シーボルト』の中で二人の出会いを次のように書いています。

 「興味深く傾聴しているうちに、その発音の工合からいって、どうも彼が同郷人であるに相違ないという気がした。彼の同郷人で極東日本に行っているシーボルトの名は彼も知っていたから、思いきって聞いてみた。「あなたが極東にいらっしゃったとすれば、ドクトル・フォン・シーボルトを御存知ではありませんか」。「そのシーボルトが私ですよ」との答えであった。私もウュルツブルグ生れのものですよという具合で、ゆくりなくもここにこの二人の心が新しい友情で結ばれた」

 シーボルトに声をかけたオペラ歌手の名前はヨハン・ヨセフ・ホフマンです。ホフマンはオペラ歌手への道を断念し、シーボルトの助手になり、日本語研究に生涯をかけ、ヨーロッパにおける日本語学を確立していくことになります。このときホフマン26歳、シーボルト36歳。
 シーボルトとの出会いからちょうど25年後の1855年6月18日、オランダ王立科学アカデミー文学部会の会議で、ホフマンは中国学・日本学を推進するために和文活字の製造を提案したと武蔵野美術大学の後藤吉郎教授が「オランダの和文活字鋳造計画の研究」(『デザイン学研究』62号所収、1987年)で明らかにしています。同論文を要約させていただくと、ホフマンは中国に展開する伝道会印刷所やフランスのディドーが所有する既製の活字母型を購入するのではなく、日本へ直接制作依頼をする方向で計画を進行させますが、しかし日本から送られてきた15本のサンプル父型は満足できる出来ではなく、日本への依頼という計画は断念せざるをえないという報告が1858年9月13日の王立アカデミーの定例会議でなされ、かわって香港活字を購入することになったということです。

   
































父型
  かわりに購入することになった香港活字はこの連載の第一回にも書きましたが、ロンドン伝道会のサミュエル・ダイアが父型の制作を始め、ダイアの死後同会のアレキサンダー・ストロナックがそれを引き継ぎ、そしてアメリカ長老会印刷所からロンドン伝道会印刷所英華書院に転じたリチャード・コールによって改刻と新刻が進められた四号 Three-line Diamond(13.5ポイント、角寸法約4.8ミリ)です。広東で1832年5月に創刊された英文月刊誌『チャイニーズ・レポジトリイ』(Chinese Repository)の51年5月号にはこの活字の記事が出ています。

 「この美しい活字フォントはすべてコール氏独自の技術と美的センスの賜物といえる。
(略)均整のとれた字形といい、字体の美しさといい、これら二つのフォント(もうひとつは Double Pica一号、角寸法8.55ミリ)は、これまで中国人や外国人によって制作されたフォントのなかでも群を抜いており、本誌の発行者も認めているように、そこで使われている書体よりもはるかに優れている」

 この四号活字の種字は約4.8ミリ角の金属材に凸刻されたものです。軟鉄といっても硬い金属ですから画数が多く点画の複雑な漢字を彫るのはずいぶんと困難なことがあったのではないかと思います。小さいサイズになればなるほどその難しさが増すことは想像に難くありません。その困難を乗り切った四号活字は、この時期までに開発されたどの明朝体漢字にくらべても、その洗練された定型化と姿形の完成度は抜群でした。ホフマンがこの書体を選択したことは充分に納得できることです。
 香港英華書院に発注した四号明朝体漢字は1858年12月に到着し、ライデンのA・W・シイホッフによって翌59年1月には早くも『一組の漢字活字の校正刷り』(Proefdruk ven een stel Chinesche Drukletter)として刊行されました。この校正刷りには216の部首に分類された漢字活字5,253字と四声記号付き声圏字122字、合計5,375字が収容されています。康熙字典の部首に準じれば214でなければならないのですが、校正刷りは第212部首(康熙字典「龍」部)に「鼠」部の3字と「龍」部の1字を入れ、第213部首(康熙字典「龜」部)に本来「龍」部に入れなければならない「龕」を1字入れ、第214部首(「龠」部)に「龜」を、第215部首に「龠」1字、第216部首に「龍」1字をあてたために部首数が多くなっています(図1)。しかしこの部首の間違いは早い時期になおされたようです。
 正しく部首建てされた校正刷りはホフマンによって11月17日まで校正作業がおこなわれた後(図2)、正式な見本帳として1860年『漢字母型と活字の見本』(Catalogus van Chinesche Matrijzen en Drukletters)として刊行されました(図3)。
 この正式な見本帳は校正刷りよりも206字が増えて5,581字が掲載されています。やがて漢字はどんどん増え、1864年の第二版では61年にギャンブルが行った使用頻度調査に基づいて6,581字となりました。1875年にオランダ政府所有の漢字印刷所を買収したE・J・ブリル社(現在もライデンにあります)は、翌76年同じタイトルで第三版を出版しますが、収録漢字は7,695字まで増加しています。手元の資料にはサプリメントも綴じられていますが、1882年から2年ごとにサプリメントを出し1891年には漢字は合計9,016字になっています。サプリメントに収録されている漢字の多くは既製の偏旁・冠脚の字を組み合わせて作字したと思われるものや、新しくオランダで彫刻したらしいものを母型化したらしく、品質はかなり劣るものが多いようです(図4)。ブリル社は1970年までこの活字を使い続けています(図5)。

   



英華書院

角寸法











オランダに入った漢字活字のサイズは13.5ポイント(角寸法4.8ミリ)であったが、テトロード鋳造所ではそれより大きい16ディドーポイント(角寸法6.01ミリ)と14ディドーポイント(角寸法5.26ミリ)に鋳込みなおしている。サイズの変更にはホフマンの意向が当然入っている。















図1

図2


図3


ブリル社は16ディドーポイントに鋳込み替えたこの香港活字を1970年の総合見本帳 Specimens of Type Facesに掲載しており、コールが制作してから120年間にわたって使用された息の長い書体ということができる。ブリル社はこの後この16ポイント漢字活字を廃棄処分にするが、約八百本が廃棄をまぬがれ平成元(1989)年日本にもたらされた。西洋人が作った古い漢字活字が日本で保存されているのは珍しい。


図4
図5
  オランダ人の文選植字工が原稿にあわせて漢字を採字し組版するとき大きな障壁を超えなければなりません。あたりまえですが一握りの学者をのぞけば漢字を読めるオランダ人はいません。漢字の読めないオランダ人文選植字工が、間違いなく当該漢字を拾い、上下の転倒を避けるためにはどうしたらいいのかという問題を解決するために、ホフマンをはじめヨーロッパの東洋学者や日本学者は知恵を絞ったはずです。
 ホフマンは素晴らしい方法を思いつきました。ホフマンは『漢字母型と活字の見本』の第二版の序文にこの方法を誇らしげに書いています。

 「私達が選んだ文字を植字工が探す場合、彼らは二種類の番号を確認してから仕事に取りかからなければならない。漢字の分類を示す上位に記された第一の番号がなにかは、214の部首が表示されている別表から簡単に探し出すことができる。その部首に多くの文字がある場合、下位の第二の分類つまり部首を除いた画数を数えることで、その該当する分類番号の中から必要な活字をたやすく識別することができる。
 植字工がこれを学べば、著者が原稿に使用する各漢字に番号をつける必要があるのは、文字の構成要素が非常に多くて部首を識別しにくい場合や、一つの文字の中に複数の部首が見られる場合だけになる。私達の方法により、著者が漢字に番号をつける作業はたいへん簡単になった」 

 ホフマンは活字の背(活字表面を正面に見て、活字四辺のうちの上辺)に康熙字典の部首番号と部首を除いた画数を鋳造します。
 「禮」を例にとってみましょう。活字の背には「113-13」と鋳造されています。第一の番号の「113」は康熙字典の部首番号です。二番目の数字「13」は部首を除いた画数を示しています。この番号を頼りに『漢字母型と活字の見本』初版を見てみますと、「113」番の「示」偏の文字は四十字が掲載されていますが、「13」画に相当する漢字は「禮」しかありませんから文選植字工は間違いなくこの字を拾うことができます(図6)。また鋳造された番号部分がネッキの役目をしていますので、それを上にすれば文字の転倒も防げることになります。しかし、文字の多い部首の漢字ではそれほど簡単ではなく、文選植字工が間違いなく該当文字を原稿通りに採字するのはたいへんであったと思います。
 ホフマンのアイデアによる活字の背番号は、19世紀の文字コードといっても良いのではないでしょうか。
 この文章の冒頭に書いた「王」の背番号が96というのは、「王」の康熙字典部首番号なのです。手元には「王」という活字はありませんが、たしかに「96」という番号が活字の背に鋳造されていたはずです(図7)。

   

































図6
ネッキ




文字コード


図7


→PDF版 (1.6 MB)

   

●PDF使用書体
本文(ベタ組み)=築地体後期五号仮名+ヒラギノ明朝 Pro W3(漢字)、見出し=築地体三十五ポイント仮名+ヒラギノ明朝 Std W5(漢字)

           
    ●参考文献/関連書籍
人物叢書『シーボルト』板沢武雄著、
吉川弘文館、1997年新装版
『西洋人の日本語発見』杉本つとむ著、創拓社、1989年
『新編 おらんだ正月』森銑三著、岩波文庫、2003年


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