ガンブルが長崎に来たときに伝習を受け,ガンブルが携えてきたと思われる一号(上海での呼称は No.1)から五号(上海での呼称は No.5)までの明朝体活字一式を模製するところから明治の活版印刷の本流は始まります。しかし,上海→長崎以前のことも知っておいたほうが良いでしょう。まさに世界的な交通関係の所産として,漢字鋳造活字は本邦へと齎されたのです。
 四桁以上のキャラクターを具えた明朝体活字は最初フランスで製造され始めます。40ポ明朝の木活字はエティエンヌ・フールモンの指導のもとに1715年から製造され1742年に製造中断,更に1811年から1813年にかけて不足文字が揃えられました。24ポイント明朝は1822年に刊行されたアベル・レミュザの漢語文法書の為に製造されたもの,これも木活字でした。18ポイント楷書はレミュザとクラプロートの提案により1830年代前半に王室印刷所で鋳造され,16ポイント明朝は1836年から1838年にかけてスタニスラス・ジュリアンが清国内で製造したものです。これらの漢字・仮名活字が19世紀ヨーロッパの東洋学書に次々用いられたわけです。
 16ポイントにはポーティエの指導のもと,パリの活字彫刻師マルスラン・ルグランが1830年代に製造した分合活字もありました。この活字はシナ沿岸部にも齎されてプロテスタントの布教活動に多用されました。
 リチャード・コールが寧波にあった華花聖教書房(美華書館の前身)を辞して香港に赴き,サミュエル・ダイヤの仕事を引き継いで完成させたスリー・ライン・ダイアモンド(13.5ポイント)格の明朝体活字もオランダに輸入されて東洋学書に多用されました。テットロード社では1875年頃に,これをトゥー・ライン・ブレヴィア(16ポイント)格に鋳込み換えています。また,コール,ダイアはトゥー・ライン・パイカ(24ポイント)の明朝活字も作っています。この24ポイント活字,16ポイント分合活字,13.5ポイント活字もガンブルを通じて本邦に伝来され,最初の一号活字,三号活字,四号活字となりました。
 そしてガンブルが製造したトゥー・ライン・スモール・パイカ(22ポイント)とスモール・パイカ(11ポイント)が本邦の二号と五号になりました。
 ヨーロッパの東洋学の展開とシナ沿岸部でのプロテスタントの布教活動により多様化していた活字のうち上海美華書館に集積されていたものが,長崎に伝えられ,それを複製することで明治期日本の明朝活字史は始まります。明治期の書物の殆どが明朝活字で組まれざるをえなかったのはこの事情によるのです。
 図版は『餘談』[★図47]という中本に掲載された本邦初の活字売り出し広告です。題簽などから『新塾餘談』『崎陽新塾餘談』などと呼ばれることもあります。
★図47
『餘談』……新街私塾,明治5(1872)年4月。中本。
 
     
 
 
     
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