タイポグラフィの世界  
   
 
 
小宮山博史
 
 
  →PDF版 (1.8 MB)

 
    「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し、人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった」「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の家来とも親しく話をした」「彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した」。引用が長くなりましたがこの「彼」っていったい誰でしょうか。もっともこれだけではわかりませんよね。正解は織田信長です。この大胆・細心・禁欲的そして合理的な信長の人物像を書き残したのは、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスです。フロイスは1563(永禄6)年来日し、30余年を日本で過ごし1596(慶長2)年長崎で没しました。晩年の十数年を『日本史』の執筆に費やしましたが、この文章はその中の第1部83章の冒頭に書かれています(中公文庫『完訳フロイス日本史2』松田毅一・川崎桃太訳、2000年)。
 このルイス・フロイスの名前を冠した道が長崎にあります。
 長崎県庁の前からほぼ北へまっすぐ走るのが国道34号線。その一本東側で、34号線と平行する道が「フロイス通り」です。フロイス通りは県庁前万才町5丁目の長崎グランドホテル前から始まり、万才町と興善町の間を抜けていきます。長崎グランドホテルの玄関脇には「本木昌造宅跡」の碑が建っています。 元阿蘭陀通詞で日本の近代活版術の創製者である本木昌造の旧宅は、大村市に移築されて住居として使われていましたが、私が平成5年に訪ねたときにはすでに廃屋で長崎への再移築も不可能な状態でした。こののち旧宅は取り壊されて今は現存しませんが、30分の1の模型が長崎市歴史民族資料館に展示されていますので、長崎を訪ねた時にぜひご覧ください(上銭座町3-1、市電茂里町下車)。
   































   旧宅跡の碑から約300メートル北へ歩くと興善町6丁目の角に自治会館、道を隔てた左側は興善町3丁目の長崎消防局です。自治会館の角に「近代活版印刷発祥之地 新街活版所跡」という碑が建っています。ここが本木昌造が作った新街私塾であり新街活版所の跡(図1)で、「上海から明朝体活字がやってきた」に掲載した図7の「崎陽新塾製造活字目録」を印刷した印刷所です。この活字見本には仮名の見本として「七号振仮名」のみが掲載され、初号から五号までは漢字だけしか載っておりません。七号振仮名の左には四号で組まれた8行の宣伝文がありますが、ここには明朝体漢字のなかにちょっと見慣れない変わった仮名が16字はいっています。「も(毛)」「の(乃)」「わ(和)」「へ(遍)」などはいわゆる変体仮名ですし、「ハ〓」はカタカナと繰り返し記号の組み合わせで「はば」と読みます。漢字は上海にあった美華書館所有の明朝体活字の複製であったことは前回書きました。では美華書館に仮名活字はあったのでしょうか。普通に考えればこの当時(明治維新前後ですが)の中国に早くから仮名活字があったとは思いにくいのですが、五号漢字にあうカタカナ活字が一種類だけありました。これは慶応3(1867)年に美華書館で印刷されたヘボンの『和英語林集成』を組むために岸田吟香が版下を書いたようです。その版下をもとに種字を彫り母型を作ったと思われますが、ひらがなは作っておりません。
   
   
新街活版所

図1







変体仮名






ヘボン
岸田吟香
   日本文を綴るのにはひらがなは不可欠です。ウイリアム・ギャンブルは本木昌造たちに活字製法の大略を教えましたが、極東の一小国の文字、ひらがなについて、自分が帯同してきた漢字活字に合う字形はどういうものがよいかというアイディアや見識を持って来日したとは考えにくい。しぜん本木たち日本人が独力で字形を模索し具体化することが求められたはずです。美華書館から輸入した漢字活字の文字面は正方形です。この漢字活字に合わせる仮名活字も当然正方形にならざるを得ません。漢字活字を眺める本木たちにとって、いままでひらがなを正方形の中に一字づつ書くという発想も経験もなかったでしょう。ひらがなは常に連続して書かれる連綿体であり、組み合わせる文字、運筆の速度によって字形は変化しどれひとつとして同じものはないのです。
 手書き文字が一字種多字形(図2)であるのにたいして活字は基本的には一字種一字形です。本木たちはひらがなの字形をどうするか大いに悩んだのではないかと想像するのですが、いかがでしょう。あくまでも想像の域を出ないのですが、まず自分たちが普段書いているひらがな、あるいは身近の能筆家の書くひらがなを思い浮かべたと思います。ギャンブルから習った活字用種字の作り方に忠実に倣い、まず毛筆手書きの文字を書いてそれを版下として木彫種字を彫ったはずです。ではその字形はどんなものであったのでしょうか。すこし年代が下りますが、明治23(1830)年に長崎の新町活版所から印刷刊行された『増補再版新々長崎美やげ』をあげることができます(図3)。そこに使われている仮名活字は本木が自力で作ったものです。その版下を書いたのは本木昌造の友人池原香稚(いけはらかわか)だといわれています。活字研究者三谷幸吉は自著の中で「池原香稚氏は本木昌造先生の活字(平仮名)の種字を揮毫せられたひとである」と書いており、私も本木活字を収蔵する長崎諏訪神社「諏訪の杜文学館」で池原香稚の書簡を閲覧いたしましたが、たしかに字形は同じでした。この書体は「和様」とよばれていたと三谷幸吉は記しています。
『長崎ぶらぶら節』の主人公古賀十二郎は実在の人物ですが、古賀も「本木氏が、池原香穉(引用者註「稚」のかわりに「穉」と書く場合もある)に行体の漢字や平仮名など書かせ、之を活字に製造して用ゐてゐた事など決して遺却してはならぬ」と書いています。またこの『増補再版新々長崎美やげ』を印刷するときには本木昌造が苦心して作った活字をできるだけ使うこととし、そのために活版所の人々に命じて初期の活字を揃えさせたとも書いています。
『増補改訂長崎美やげ』を組んでいる行書活字と「和様」仮名は最も初期の制作になるものなのです。図版を見ていただければわかると思いますが、たしかに正方形の中に入れています。上下方向はだいたい同じ大きさに近づいていますが、字形と左右幅は仮名固有の姿を色濃く残しています。水平垂直の格子構造で定型化が進んだ明朝体漢字の字形にくらべて、仮名は線幅が細くいかにも毛筆時代のスタイルを踏襲する不定型です。今の明朝体を見慣れた目には漢字にたいして仮名のスタイルが違っていてなんだか変だなと思うかもしれませんが、明治初年の人にはむしろ漢字のほうが気持ち悪かったのではないでしょうか。
   












字形
図2









図3
   本木昌造のあとをついだ平野富二は明朝体漢字と仮名活字の改刻をおし進めていきます。のちに「築地体」と呼ばれ、日本の活字書体を牽引する書体の第一歩は、上海美華書館の漢字と図3で見たような日本の毛筆仮名を大きく逸脱しない仮名の組み合わせで始まりましたが、それとほぼ同時期にもっと正方形に近い字形の仮名も作られていました(図4)。池原香稚版下の仮名は二号・三号・四号ですが、もう一種の仮名は五号用です。この五号用の仮名と池原香稚仮名をくらべてみてください。字形の作り方は近いのですが、ずいぶんと正方への指向が見えますし、左右に振れる文字が少なくなり行の中でしっかりと直立していることがわかると思います。しかしまだ定型化したという段階ではなく、試行錯誤の段階だと感じます。平野活版はやがてこの五号仮名も捨て去り、新しい五号仮名を使い始めます。これが府川充男氏が名付けた「築地体前期五号仮名」です。大日本スクリーン製造がリリースした「日本の活字書体名作精選」収録の一書体で、前回の文章のPDFは今回復刻したその「築地体前期五号仮名」で組んであります。この仮名書体がいつ作られたのかは残念ながら私にはわかりませんが、府川充男氏の調査によれば、明治7(1874)年5月14日第687号の『東京日日新聞』(図5)に使われたのが最初ではないかということです。
    平野富二


図3

図4













図5
   『法普戦争誌畧』に使われた明治4年以降約4年間で3種類の仮名を作ったのは興味深いことです。はじめは毛筆仮名そのものでした。次に登場したのは毛筆仮名からすこしはなれて定型化を目指す字形をとりはじめたもの、そして明治7年に出現した「築地体前期五号仮名」(図6)は、現在に続く明朝体仮名の方向を決定づけた書体ということができるのではないでしょうか。この五号仮名はこののち部分的な改良がなされ、字形もわずかに変化しながら日本全国へ広がっていきました。いま詳しく見てみると、文字には大小がありすこし右上がりの造形に感じますが、傾きに統一性がないようです。しかし毛筆仮名の線の躍動感を生かしながら無理なく正方形にまとめている彫り師の腕は見事だと思います。明治2年に活字製法を初めて習い、わずか5年でここまでの姿形を作ることのできた彫り師はいったい誰であったのでしょうか。残念ながら記録はなく無名の職人というほかありません。日本の活字書体は誰にも知られない無名の職人の努力によって支えられてきたのです。話がすこしそれましたね。
 この前期五号仮名をいっそう洗練させたのが「築地体後期五号仮名」です(PDFは覆刻した後期五号で組んであります)。多分明治30年代に作られたと思いますが、正確な完成年代と彫り師の名前はわかりません。毛筆仮名の自由さと定型化の微妙なバランスの上に立った姿形は、正方形の中へ無理なく配置され、自然な美しい線質とあいまって日本の活字書体の中でも優れた書体といってよいでしょう(図7)。この書体の影響は現在のデジタルフォントの中にも数多く見られますが、その中でも写研の写植書体石井明朝体MM-A-OKL/OKSが代表的なものと言えるでしょう。
 築地活版の仮名書体は3系統に分けることができます。ひとつは毛筆書の伝統を受け継いだ字形を色濃く残した「築地体三号細仮名」に見られる流麗な書体と、ひとつは手書きから離れて字形を整理しつつ正方形化に向かうもの、この代表が「築地体初号仮名」「築地体三十五ポイント仮名」「築地体三号太仮名」です。そしてこの両者の中間タイプが「築地体一号太仮名」で、手書きに若干振れた字形です。「前期五号」「後期五号」はこの中間タイプに属するものです(サイトの書体見本をご覧ください)。見出し用書体はあくまで正方形への定型化をいっそう進めたもの、本文用書体は毛筆手書きの味を残したものという設定は今でも興味深いものです。
 仮名の毛筆手書きから活字への移行は、それぞれの文字が持つ固有の形・大きさを正方形のなかに押し込め、大きさを揃える方向で字形に手を加えるという作業でした。その作業は、大胆なアイデアと細心のデザイン処理能力を持った無名の職人が、印刷適性をみすえた合理的な字形を生み出す苦闘の歴史といってよいのではないでしょうか。
 私達はその成果を今享受しているのです。

   
 
   
   
図6


















図7




築地体三号細仮名
築地体初号仮名
築地体三十五ポイント仮名
築地体三号太仮名
築地体一号太仮名
→PDF版 (1.8 MB) ●PDF使用書体
築地体後期五号仮名+ヒラギノ明朝 Pro W3(漢字)、四分空き
     
    ●参考文献/関連書籍
『本木昌造平野富二詳伝』三谷幸吉著、詳伝頒布刊行会、1933年
『本邦活版開拓者の苦心』津田伊三郎編集、津田三省堂、1934年。株式会社ナプス 1997年復刻
『先駆者岸田吟香』杉山栄著、岸田吟香顕彰刊行会、1952年
人物叢書『ヘボン』高谷道男著、吉川弘文館、1986年新装版
ヴィネット03『和様ひらかな活字』板倉雅宣著、朗文堂、2002年
ヴィネット08『『富二奔る――近代日本を創ったひと・平野富二』片塩二朗著、朗文堂、2002年
『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』近代印刷活字文化保存会、2003年


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