タイポグラフィの世界 書体編  
   
 
上海から明朝体活字がやってきた
 
小宮山博史
 
  明朝体活字
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    全長6,300キロメートルの大河揚子江に注ぐ黄浦江の西岸に上海市が広がっています。
 清朝政府は阿片戦争の敗北によってイギリスに香港を割譲し、上海を対外通商港として開港せざるをえませんでした。イギリスに続いてアメリカ・フランスも上海を対外通商港とし、やがて自国の居留地の権益を守るために警察権・行政権を握ります。租界(そかい)の誕生です。現在上海の観光スポットとして多くの人々の目をひきつける外灘(バンド)に建ちならぶ建築群は、上海に展開した外国資本によって1920年代中頃までに作られたものです。
 この建築群から南へすこし下ったところの中華路に小東門という名のバス停があります。かつて楕円形の城壁で囲まれていた上海城の東側の門の名前ですが、この小東門から東へ300メートルほど歩くと、黄浦江と中山東二路に囲まれた小さな台形の土地にぶつかります。ここはフランス租界の東南端にあたり、フランス警察小東門派出所が設けられていました。
 この派出所の左に美華書館という名前の印刷・出版所が建っていました。美華書館は北米長老教会が作った印刷・出版所で、正式名はAmerican Presbyterian Mission Pressといいます。美華書館は1860年12月寧波(ニンポー)から上海に進出し、中国内でのキリスト教伝道のために大量の漢訳聖書や布教用小冊子などを印刷・出版していきます。この美華書館をはじめその他の伝道会印刷所が印刷した書籍のほとんどが明朝体活字で印刷されていることは注目に値します。欧文書体の基本書体がローマン体であることから、それに近いデザインである明朝体が選ばれたのであろうと想像できますが、その他に、経験と感性が不可欠な毛筆楷書が書けない人でも、明朝体はわりあい容易にデザインできるという側面もあったからではないかと私はひそかに考えています。
   






















明朝体

ローマン体

楷書体
美華書館の活字販売広告    では誰が短時間に大量印刷を可能にする近代活版印刷技術にこの明朝体を組みこんだのでしょうか。たしかに明朝体というスタイルは中国人が木版印刷用書体として作りだしたものに違いありませんが、工業製品としての金属活字にいち早く明朝体を採用したのは実は中国人ではなく、ヨーロッパ人でした。ヨーロッパでは早くから東洋への興味や関心が高く、また貿易活動や植民地経営などから現地の言語の活字化が進んでいました。明朝体漢字活字もその流れの中で生まれたのです。
 1868年、日本では明治元年ですが、上海で活動するアメリカメソジスト監督教会の宣教師が創刊した漢字雑誌に『教会新報』というのがあります。いろいろな分野の記事や世界のニュース、各教会の活動などその内容は多彩で、雑誌形式の新聞と思っていただけたらよろしいでしょう。この『教会新報』の中に2ページを使った美華書館の活字販売広告(図1)が出ています。
 書体はすべて明朝体で、 種類と文字数は次のとうりです。
   一号(Double Pica 24ポイント)……50字
   二号(Double Small Pica 22ポイント)2種類……各66字
   三号(Two-line Brevier 16ポイント)……103字
   四号(Three-line Diamond 13.5ポイント)……142字
   五号(Small Pica 11ポイント)……152字
   六号(Brevier 8ポイント)……96字
 一号から六号までの号数表示は、のちに日本の活字サイズとなった号数制の名称ではなく、中国語でいう順番つまり一番目二番目という意味だと思われます。各号にたいするアメリカでの名称とポイント数値はこの広告にはありませんが、大きさを実感していただくために( )内に入れておきました。この時期に見出しから本文、注釈までに対応できるサイズの明朝体活字が揃っていたことに驚かされます。ではこの6サイズ7書体の制作者は誰なのでしょうか。読者の皆様は「もちろん中国人が作ったのさ」とおっしゃると思いますが、残念ながらはずれです。
    活版印刷

木版印刷
金属活字


活字






図1:教会新報









活字サイズ
号数制

ポイント
一号    一号(図2)はロンドン伝道会(London Missionary Society)のサミュエル・ダイア(Samuel Dyer)が活字のもとになる父型の凸刻を始め、ダイアの死後同じ伝道会の宣教師が引き継ぎ、そのあと北米長老会印刷所から転じたリチャード・コール(Richard Cole)によって改良と新刻が続けられ、1851年には4,700字に達していました。父型は原寸の軟鉄に逆字で凸刻されたのち焼きを入れて硬度を増し、それを銅の母型材に打ち込みます。これをパンチドマトリックスといいます。打ち込まれた文字は凹形になり、ここに活字合金を流し込むと活字ができあがります。15世紀ドイツで活版印刷術を発明したグーテンベルクの製法と同じやり方です。     図2:『馬太伝福音書』
二号    二号は2種類(図3)が掲載されており、一つはやや右上がりの構成が特徴の書体です。これはドイツ人のバイエルハウス(August Beyerhaus)という活字鋳造業者が1859年に完成させたもので、偏(へん)と旁(つくり)を別々に作っておいて組み合わせて一字にする「分合活字」(ぶんごうかつじ)というシステムの活字です。制作方法は一号と同じパンチドマトリックス法によっています。もう一つの二号は水平垂直の構成で、現在の明朝体とほとんどかわりません。この書体は1868年ごろ完成したと思われますが、活字のもとになる父型は金属ではなく、活字と同じサイズの木材(駒といいます)に彫刻刀で逆字で凸刻されたもので、これを電気メッキ法を応用して母型を作り(電胎母型といいます)、そこに活字合金を流し込んで活字を鋳造します。この方法を考えだしたのは美華書館館長ウイリアム・ギャンブル(William Gamble)です。いままでの活字史や印刷史の本では「ガンブル」と書かれていますが、「ギャンブル」が正しいと思います。     図3:『耶〓降世伝』
※〓は「蘇」の草冠なし










蝋型電胎法
三号    三号(図4)はフランス王立印刷所の有名な父型彫刻師マルスラン・ルグラン(Marcellin Legrand)が父型を彫ったもので、1837年に完成しています。この活字の特徴は二号と同じように「分合活字」のシステムを使っていますが、偏旁の組み合わせだけでなく冠(かんむり)脚(あし)も別々に作っておいて組み合わせて一字を作ります。しかし冠脚の組み合わせの字はバランスが極端に悪く、また画線も細く中国人にはとても不評でした。偏旁にしろ冠脚にしろそれぞれの部分は組み合わせる形によって大小・長短・位置が変化するのが自然ですが、分合活字はそれらを単一化・固定化する他ないのですから、漢字使用国の人々にとっては「変な字!」と思われたとしても何の不思議もありませんね。     図4:『旧約全書』




偏旁冠脚
四号    四号(図5)は一号と同じ人々によって同じ方法で同じ時期に作られました。小さいサイズでありながら字形の完成度は高く、ヨーロッパ各地やアメリカで使われましたので最初の漢字書体のインターナショナル・スタンダードということができるでしょう。この漢字書体を最後まで使っていたのはオランダで、1970年のオランダの印刷会社の活字見本帳に載っています。やがてこの活字も他の新しい漢字書体に替わり、廃棄処分となりましたが、約800本だけが日本に回収され生き延びました。この活字は背番号が鋳造された珍しいものですが、このお話は別の文章でお話ししましょう。     図5:『路加伝福音書』
五号    五号(図6)は世界で数多く作られた明朝体の中で最高峰ともいえる完成度です。二号と同じで木材に彫刻刀で彫った父型をもとに電気メッキ法で母型を作ったもので1864年に完成していました。もちろん文字の版下は中国人が書き、彫刻も中国人であったと思われますが、このアイデアを出したのがウイリアム・ギャンブルでしたので、 ギャンブルの名前だけが記録され版下師と彫刻師である中国人の名前は残っていません。
 六号は詳細が不明ですが、制作者はリチャード・コールだろうと思います。この活字は聖書の節を表すだけですので字種は多くありません。
    図6:『旧約全書』
崎陽新塾の活字見本    明治2(1869)年11月、活字制作と活字印刷の習得に悪戦苦闘する長崎の元阿蘭陀通詞本木昌造は、ウイリアム・ギャンブルを長崎に招聘します。この年の10月美華書館の館長を辞任したギャンブルは美華書館所有の印刷機を含む印刷機材と活字および鋳造機材を携えて来日し、翌明治3年3月までの4ヵ月間日本人に活字鋳造法と印刷術を教えます。『教会新報』によれば滞在期間中に活字母型3セット(漢字・ 欧文・仮名)を作り、英和辞典の印刷を試みたようです。これらの活字は美華書館が保有しているもの、つまり『教会新報』に掲載された広告の活字そのものであったと思われます。本木昌造が講習のあと作った「崎陽新塾活字製造所」の活字見本(明治5年、図7)を組んでいる活字は、美華書館の活字サイズと字形がまったく同じであることがそれを物語っています。ギャンブルが帯同してきた機材の購入費用は4,000ドルであったといわれていますが、講習後も美華書館から活字を買い続けそれを複製していったものと思われます。
 ギャンブルの講習に参加した人々はこののち二つに分かれ、一つはのちに築地活版製造所に発展し、他方は大蔵省印刷局の基礎を作ります。築地活版製造所については稿を改めます。
 日本の明朝体の歴史はこの4ヵ月の講習とその後の複製から始まったのです。

   









図7:活字目録
活字見本帳
→ PDF版 (2.0 MB) ●PDF使用書体
築地体前期五号仮名+ヒラギノ明朝 Pro W3(漢字)、四分空き
           
         
    ●参考文献/関連書籍
『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』近代印刷活字文化保存会、2003年
『本と活字の歴史事典』柏書房、2000年
『明朝活字 その歴史と現状』平凡社、1976年
『季刊プリント』印刷出版研究所、1962年

→第2回 四角のなかに押し込めること