◆デザインという言葉は、あまりにも広い範囲を指してしまうため、それがDTP関係に絞ったものであっても、その解説には膨大な時間がかかってしまうほど難しいのです。そして、極論を言ってしまうと、本来デザインの中には「more better」はあっても、何が正しいか間違っているかという論争は存在しないのではないでしょうか。目的と用途で、視点や論点がまったく異なってしまうからです。にもかかわらず、すべてを同一視してしまうような考え方が多いような気がします。そんな状態が続くと、新しいデザインは永遠に生まれて来なくなってしまいます。しかし、そう切り出すと「なんでもあり」と勘違いされかねません。デザインの話は本当に難しいのです。
 たとえば、ある設定では好ましくないデザインも、別の設定では歓迎されるといったことが多々あります。それらの判断(結論)をストレートに導き出すためには、地道に多くの仕事で自分を鍛えるしかありません。
 しかも、デジタル化された現在はアナログ処理の時代と異なり、文字組みもすべてデザイナーが行なう恵まれた環境となっているので、スキルを重ねるのに都合が良くなっています。そして、組版(設定)データを複数の関係者で、あるいはデザイナー同士で共有できることをもっと有効活用すべきでしょう。しかし、そのためにはソフトウエアやコンピュータを使う前に、デザインのセンスとスキルを身につけなくてはなりません。

◆欧米のように、タイプライターというものが早くから一般家庭に入り込んでいた国々と異なり、文字数が多くそれらを機械的に処理*できなかった日本では、ワープロ専用機あるいはパーソナルコンピュータが普及するまで、執筆に関わる者にとっては、原稿用紙と向き合う手書きしかありませんでした。そしてこの10年余りで原稿用紙と万年筆のブランドにこだわっていた原稿書きも、パーソナルコンピュータでの執筆にシフトしています。しかし、我が国には文字を美しく書くという書道文化があり、機械化されてしまった現在でも、欧米のような価値観に移行したわけではありません*。
 そして原稿用紙という文化により、一部間違った認識が一人歩きしているように感じています。この文化は文字数をカウントするための合理的な手法として、学校教育などにも普及しました。しかし、その結果、文字は四角形に収まる。あるいは納めるものという固定概念が生まれてしまったのではないでしょうか。もともと日本人は、手書きの文章ではプロポーショナルな文字を使っていたわけですから、なにかそれを否定されてしまったような気がしていました**。

日本語タイプライター(和文タイプライター、あるいは邦文タイプライターとも言われる)は、大正時代初期の頃から販売されていたようです。ただし、欧文タイプライターと比べると、構造が複雑で操作には高いスキルを伴い、高額であったために一般家庭に普及することはなく、学校、会社、役所などでの使用に限られました。その一文字ずつ探し出して鍵打する方式は、ちょうど初期のパソコン用に販売されていた単漢字変換のワープロソフトのような世界です。でも、その一文字ずつの入力方式は写植機の構造と同じであったわけですから、一般人が使いこなせるものではなかったのは確かです
         
  *最近では、日本語が本来「縦書き文化」であったことを忘れ去られようとしているくらい、縦書きに触れることが少なくなってきました。もちろん、小説などは今でも縦書きですが、ここで言う私の「縦書き文化」とは手書きの文章についてです。私が最後に長い文章を縦書きで書いたのは、学生の時だったかもしれません。ちなみに写植指定などは方眼用紙を利用していました。これなら苦手な縦書きも枡目に沿って書き写せばよいわけですから。ところで毛筆であれば話は違うのでしょうが、縦書きは畳が敬遠されてしまったのと似たような運命をたどっているような気がします。つまり、現実的でないのです。とにかく私は縦書きが苦手です。ですから、ふらっと立ち寄った展覧会などで、縦書きの芳名帳に名前を書くのが大嫌いなんです。枡目がないのでガタガタになってしまいます。練習しなくてはといつも反省しています。そんな私も、中学生の頃は書道三段でしたが、考えてみると私の師は楷書の漢字だけしか教えてくれなかったので、書道としては現実的ではなかったわけです。もう少し続けていたら草書や仮名文字を学べたかは、今となっては謎です。   **手書き時代には文章を書くことがどちらかといえば苦手であった私が、今ではキーボードをマシンガンのように酷使して大量の文章を書いています。そして、Blogの台頭により更に拍車がかかってしまいました。とにかく作文と原稿用紙が大嫌いであった私にとって、どこでどう間違えてしまったのか、今のように文章を乱発しまくっているのが自分でも不思議で仕方がありません。それは、原稿用紙の使い方を厳格に指導されたトラウマなのです。後年になってから、著名な作家の生の原稿用紙を見たときのショックは相当なものでした。こんなにグチャグチャでも本になってしまうんだという驚きです。
そんなわけで、高校生までの私にとって原稿用紙は鬼門でした。見ただけで憂鬱になってしまいました。世の中にはルールを最初に学ばなくてはならないモノと、それは後回しでとにかく表現しなくてはならないモノは確実にあります。原稿用紙と対峙してひねり出す作文は、まさに後者の典型例でしょう。行末禁則処理なんてどうでもいいし、行頭のインデントなんてまったく重要な事ではないのです。
もしかしたら思っていることを一気に書き出す事を『善』とする教育に当たっていれば、ずいぶん違った私になったかもしれません。実は作文は嫌いだけど、文章を書くのが好きだと高校を卒業したあたりで自覚したからです。気が付くのが遅すぎ。
とにかく、掟や作法は後から覚えればいいのです。まず最初に、粗書き原稿が幾つもできなければなりません。イラストならラフスケッチに相当する部分です。そこには作法など必要ないのです。考えてみてください。最終的な文章が、国文法的にあるいはDTP的に(?)非の打ち所がないほど完成されていたとしても、肝心の文章内容がダメダメであればすべては終わりです。しかし、掟や作法に問題があったとしても、文章内容が面白ければ、あとはなんとかなってしまいます。
       
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