|
|
*最近では、日本語が本来「縦書き文化」であったことを忘れ去られようとしているくらい、縦書きに触れることが少なくなってきました。もちろん、小説などは今でも縦書きですが、ここで言う私の「縦書き文化」とは手書きの文章についてです。私が最後に長い文章を縦書きで書いたのは、学生の時だったかもしれません。ちなみに写植指定などは方眼用紙を利用していました。これなら苦手な縦書きも枡目に沿って書き写せばよいわけですから。ところで毛筆であれば話は違うのでしょうが、縦書きは畳が敬遠されてしまったのと似たような運命をたどっているような気がします。つまり、現実的でないのです。とにかく私は縦書きが苦手です。ですから、ふらっと立ち寄った展覧会などで、縦書きの芳名帳に名前を書くのが大嫌いなんです。枡目がないのでガタガタになってしまいます。練習しなくてはといつも反省しています。そんな私も、中学生の頃は書道三段でしたが、考えてみると私の師は楷書の漢字だけしか教えてくれなかったので、書道としては現実的ではなかったわけです。もう少し続けていたら草書や仮名文字を学べたかは、今となっては謎です。 |
|
**手書き時代には文章を書くことがどちらかといえば苦手であった私が、今ではキーボードをマシンガンのように酷使して大量の文章を書いています。そして、Blogの台頭により更に拍車がかかってしまいました。とにかく作文と原稿用紙が大嫌いであった私にとって、どこでどう間違えてしまったのか、今のように文章を乱発しまくっているのが自分でも不思議で仕方がありません。それは、原稿用紙の使い方を厳格に指導されたトラウマなのです。後年になってから、著名な作家の生の原稿用紙を見たときのショックは相当なものでした。こんなにグチャグチャでも本になってしまうんだという驚きです。
そんなわけで、高校生までの私にとって原稿用紙は鬼門でした。見ただけで憂鬱になってしまいました。世の中にはルールを最初に学ばなくてはならないモノと、それは後回しでとにかく表現しなくてはならないモノは確実にあります。原稿用紙と対峙してひねり出す作文は、まさに後者の典型例でしょう。行末禁則処理なんてどうでもいいし、行頭のインデントなんてまったく重要な事ではないのです。
もしかしたら思っていることを一気に書き出す事を『善』とする教育に当たっていれば、ずいぶん違った私になったかもしれません。実は作文は嫌いだけど、文章を書くのが好きだと高校を卒業したあたりで自覚したからです。気が付くのが遅すぎ。
とにかく、掟や作法は後から覚えればいいのです。まず最初に、粗書き原稿が幾つもできなければなりません。イラストならラフスケッチに相当する部分です。そこには作法など必要ないのです。考えてみてください。最終的な文章が、国文法的にあるいはDTP的に(?)非の打ち所がないほど完成されていたとしても、肝心の文章内容がダメダメであればすべては終わりです。しかし、掟や作法に問題があったとしても、文章内容が面白ければ、あとはなんとかなってしまいます。 |