★図4…典型的な「雫文字」(上)と「裾引文字」、『現代商業美術全集』第15巻「実用図案文字集」(アルス、1930年)より
  平野● おれがやろうとしているじゃない。
川畑▲ それが大問題なの(笑)。なぜ問題なのかはこの章の最後で総括するとして、ボクが一番おもしろかったのは、アール・ヌーヴォーの逆輸入ですね。
 「雫(しずく)文字」や「裾引(すそひき)文字」といわれる大正期特有の下膨れ様式は、明らかにアール・ヌーヴォー様式の影響なんですが、そもそもアール・ヌーヴォーはジャポニスム、つまり日本から西洋社会に伝えられた文化を礎(いしずえ)にしているんですね。ところが、それが日本に逆輸入されると、いままで日本になかった表現が、突如として芽生えてくるんです[★図4]
平野● ありがちだよね。
川畑▲ 書体に関していえば、さきほどの明治の書風なんかみごとに切り捨てられて、代わりに斜体のようなアルファベットの価値観が導入されているんです。明らかに欧米の文化や流行を意識して、日本語の書体観が変化しだした、筆の文化からペンの文化へと移行したという印象ですね。
 ただ、そういった発想がひろく一般にまで行き渡っていたかといえば、そうは断言できない。 
『広告世界』という雑誌に、横浜のある商店主が投稿した記事が掲載されているんですが、彼はこう主張するんです。
  兎(と)に角(かく)我国の文字は、羅馬字に比すれば、字体〔=書体〕の却々(なかなか)豊富なので、サテ什麼(どんな)字体がよいかなどと思ふ時、俄(にわか)に思ひ出せるものでなく、又木版屋などに注文する場合にも、これに似た字体と言つて予(かね)て自分が採集してゐる字体を示すと、十分に其要領が呑込めて甚だ便利である[☆註2・★図5]
     
☆註2・★図5…濱菱生「札の文字」、『広告世界』第1年第6号、1916年6月。  
     
☆註3…佐々木十九『広告心理学』佐藤出版部、1915年。原著は米国のノース・ウエスタン大学の心理学講座教授W・D・スコットの『広告の心理 Psychology of Advertising』(1908年)    つまり、欧米で流行する装飾様式や欧文書体をアイデアの源泉にした稲場小千とは、正反対の認識なんです。この商店主は、日本語の書体表現のほうがバリエーションが豊かだと明言し、しかもその例証として、新聞広告などから収集した描き文字を、誌上で公開しているんです。
 現在では、邦文書体よりも欧文書体のほうがバリエーション富んでいることは、なかば一般常識化してますけど、ここではそうじゃないんですよ。外の世界を知らなければ、“日本にもいろんな書体がある”で終われるんです。逆からみれば、すでに新聞広告や雑誌広告などで、多種多様の描き文字が使われていたという証でもあるんだけど。
平野●『広告世界』は何年だっけ? なかに混植もあるじゃん。
川畑▲『広告世界』は1916年、稲葉の描き文字集が1912年です。
広告史の分野では、第一次世界大戦の前後が日本の広告表現のターニングポイントになるんです。アメリカで盛んだった心理学的な広告研究が翻訳紹介[☆註3]されたことなどを機に、科学的なアプローチから広告を見直そうという動きが芽生えてきます。そういう時代です。
小宮山■稲場さんてどこの人ですか?
川畑▲詳しくはわかりません、版元は東京ですね。共著に『中等図按教科書』(岡田秀との共著、興文館、1918年)があるから図案畑の人かな。『日本結髪史』(春陽堂、1918年)という著作もあるけど(笑)。
平野●この時代にこれをやったのがすごいんだよね。業界から相当、迫害されたんじゃないの。聖人みたいな人。絶対批判されることはわかっているし、こんなことやっても誰も使わない。個人的にはラクダのモモヒキみたいなの(02頁、図3-4)が、すごくいいね。
     
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