川畑▲ たとえばね、杉浦康平さんの本文組みは決して読みやすさだけを探求してはいないと思うんです。大先輩を引き合いに出して大変申し訳ないんだけど、少なくともボクにとって、杉浦康平さん特有のスタイルは決して読みやすいものではない。だけど、それでいいと思うんです。メディアの性格や内容にもよるけど、デザイナーにとって“読みやすさ”だけが、追い求めるべき価値観ではないと思うから。可読性を追求した本文組みがあってもいいし、きわめて主観的で独創的な本文組みというのがあってもいい。戦時下の言論統制じゃないんだから、多様な価値観があっていいというのが基本だと思うんです。
 だから、常に「デザイナーの思う“きれい”イコール読みやすさ」という方程式が成立するわけではない。だって、デザイナーの思い込みほど危うい要素はないじゃない(笑)。
小宮山■ 川畑さんが文章を組むとき、わりあいゆるい縛りで組んでます?
川畑▲ 仕事によるけど、自分が書いた文章の場合は、すごくゆるい雰囲気を出すように、細心の注意を払いますね(笑)。
 というのも、デザインの歴史なんかと取り組んでいると、オフセット印刷の本よりも活版印刷の時代の本を多く読むことになる。で、それを見慣れてしまうと、デザイナーやタイポグラファーが思い描く今風の“きれい”が、うるさくてしょうがないの(笑)。一字一句を見逃すまいと全神経を集中しているときに、無用な細工があったりするとイライラする。「なんで読ませてくれないんだ!」ってね。そうゆう嫌悪感って、ボクに限らず読者の側にはすごくあるんじゃないですか。
小宮山■ 活版ってゆるい縛りですよね。
川畑▲ そのゆるさが、ボクにとっての「読みやすい」だったりするの。
平野● それもデザイナーの個性……というより“好み”がいっぱい入ってる。
川畑▲ もうひとつ体験をいえば、自分で長い文章を書くようになってから、組版に対する意識がずいぶん変わりましたネ。遅まきながら、どうすれば読んでもらえるか、どうやったら内容をうまく伝えられるかという面に重きをおくようになりましたから。優先順位としては きれい はそのつぎ……決して汚くてもいいという気はないけど、やはり“読む”という行為が基本だから。
 もともと広告デザインからスタートしてるので、きつい縛りや、紙面をいかに“きれい”にするかに固執していた時期もありますけど。
小宮山■ そういう経験があるからいろいろな議論が成立するわけで、ない場合はそんなものかで終わってしまう。いま問題なのは、本や雑誌さえ読まないデザイナーが、本文を組んでることです。もうタイポグラフィなんて存在しなくなるんじゃないかという、危惧がありますね。
平野● 広告の場合は昔からありましたね。ボディコピーを単なるグレースペースと見る風潮があったの。しかも、隅っこの方にあったほうがいいとかね。だから文字組みなんかどうでもいいと。いまはむしろ、書き手の方が真剣に取り組んでいますよね、1ページのなかに漢字がいくつぐらい出てきたらいいとか、書体にこだわるとかね。谷崎潤一郎なんかがすごくうるさかったのと同じで。
 でも結局は、そんなに普遍的な問題じゃないんだよね。非常に個人的な問題。だから、うんと左翼か右翼に行っちゃえば、おれがつくったフォントで組んでもいいんじゃないの。それはもう歴然と批判を被るものであるから、それでいいわけよ。
川畑▲ すぐ左翼とか右翼とかに行くんだから(笑)。ここで改めてお聞きしますが、平野さんの描き文字フォント化は、なにを目指して進んでいくんですか?
平野● そうだねえ……ここまでいくつかのプロセスがあったから、それを話したほうが手っとり早いかな。
 最初は1992年。この時点で、描きためた文字が山のようにあったわけ。その文字をなんとか再生しようとリトグラフに仕立て直して、「文字の力」と銘打って個展をやった。その作業のなかでコンピュータを使うこともおぼえたし、自分のすすむべき途もハッキリした。描き文字を描くということは、情景と心象を描くということ。極端なこといえば、イラストも写真もいらない。これしかないと自覚したね。
 つぎは2000年。黒テントの芝居(松本大洋の「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」)でさ、登場人物の連想を文字にして、舞台上のスクリーンに映写したいという注文がきた。その連想というのがとりとめのないもので、バラバラなんだよ。そこで思いついたのが、あの古典的な“脅迫状”のスタイル。一文字づつさまざまな印刷物から切り抜いて文章をつづるアレ。モノがモノだけにインパクトがあるわけよ。そこで山に分け入って文字をさがしてみた。ところが描いたことない字が案外あったりしてネ。その時、今まで描き文字をどれだけ描いてきんだろう……とふと考えたわけ。
 そして2004年。青山のギャラリーで字游工房といっしょに「文字の文字」展をやった。字游工房はフォント開発が生業(なりわい)だから、堂々たる新書体見本帳なんかを展示するわけだ。そこで考えた。だったらぼくも、ストックしている描き文字のなかから、字面のおもしろいものをB全いっぱいに並べてみようと。そしてまたまた思いついた。もしかしたらぼくもフォントが創れるかもしれない! 「甲賀常用漢字」なんてどうだってね。ところが配列表に文字をあてはめてみてビックリ、常用漢字1945字の半分も描いていないんだ。もっと描いていたつもりだけど、じつは同じ文字を何通りも描いていたんだ。
 それに輪をかけて、字游工房が用意してくれた配列表がまた意地悪なんだ。常用漢字だけじゃなくて、第一水準の文字まで表記されていた。だけど、描いた漢字で第一水準にはいるものも少なくない。なんとなくその気にさせるんだよ。
 そこでとりあえず、めざせ第一水準制覇!
 さいぜんから描き文字は、季節や社会状況に左右されるその時々のロゴタイプだって自らいってきた。「ストックするべからず」という説もあった。だから描き文字はフォントに馴染まない――たしかにそうかもしれない。だからといって、出自もあきらか、スタイルも完成していて、国民的コンセンサスもあり、商売にもなる明朝体やゴシック体のフォントだけでいいのか……。
 それじゃおもしろくないだろう。
 なぜやるのか? 「書」が権威と脅しの文化なら、「描き文字」は脅迫状の文化。どっちも同類じゃないか。でもちょっとだけ違う。脅迫状と同じく「描き文字」は虚々実々、みえみえの手口。それが売りであり、ぼくの生き方なのよ。 〈第1回 完〉
     
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>序章 描き文字考 p001〜014(PDF:1.4MB)
>第1章 描き文字考 p015〜023(PDF:1.5MB)
>第1章 描き文字考 p024〜032(PDF:1.6MB)
>第1章 描き文字考 p033〜042(PDF:1.6MB)
>第1章 描き文字考 p043〜053(PDF:1.4MB)
     
   

発行=大日本スクリーン製造株式会社
   2005年12月22日
題字=平野甲賀
構成=川畑直道
企画・デザイン=
   向井裕一
編集=柴田忠男

※本稿の図版収録に際して、以下の方々の著作権者にご連絡がとれませんでした。
お心あたりの方は、恐れ入りますが、font-info@screen.co.jp までご連絡くださいますようお願い申し上げます。
稲葉小千/和田斐太/藤原太一/清水音羽/本松呉浪

     
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