川畑▲ そうした前提をふまえてですが、最近、平野さんは描き文字のデジタル・フォント化[★図28]と取り組んでいらっしゃいます。矛盾してませんか(笑)。
平野● 真面目に答えると、ロゴタイプにも汎用性みたいなものがあって、それにすごくこだわりを持っているというかね。その意味とはいったいなんなのか、というところでぼくは描き文字のデジタル化に踏み込もうとしているわけで……。
川畑▲ 踏み込んでいくと、けっこうヤバイぞという意識はご自身のなかにありますか?
平野● 無視されるだろうし、それを使う人はまずいないだろうね。ただ、それでもやっていくことで、その理由を理解するわけだ。
川畑▲ それほどまでして取り組む理由とは?
平野● いやー、ツッパリでしょうねえ(笑)。それでいて汎用性がないわけじゃない。ごく小さな、ある種の文化グループでは通用します。
小宮山■ 汎用性というのは、いってみれば本文組みなどの一般的な組版で使われる書体に主に求められるもので、そこから除かれる書体もある。それでも汎用性は少しは考えられている。考えられていないと書体として成立しないという面はありますね。とくに明朝体やゴシック体の漢字の場合は、その縛りがきつい、というところだと思います。しかし、仮名のデザインには個性があふれています。いろいろな書体の仮名を並べてくらべてみると、百花撩乱という言葉がぴったりするような、デザイナーの感覚・意識が一目でわかる個性があります。だけど、ほとんどの読者はそれを意識しませんね。それは膨大な投下量によって、本来持っている個性が薄まるというか、感覚が鈍ってしまうからではないでしょうか。
 たとえば、書体になんの興味を持たない人でも、それまでずっと購読していた新聞を他社の新聞にかえると、かならず紙面から違和感を感じるはずです。でもそれも一時的なもので、数日のうちにその違和感もやわらぎ、以前とかわらなくなる。見方をかえれば、このような「個性の希薄化」を生じさせるのが、基本書体の特徴ではないでしょうか。個々の文字はきわめて個性的でも、ある量を超えると希薄化していく個性、つまりお釈迦様の手のひらの上で暴れる孫悟空であって、それを飛び出してしまうと、基本書体にはならないんじゃないでしょうか。

     
★図28…“描き文字”のデジタル・フォント化のきっかけとなったポスター「漢字漢字」(「文字の文字展」より、2004年)  
     
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